国民教材(?)『山月記』・・・その5



 『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』の著者によれば、『山月記』が「国民教材」と認識され、そう呼ばれるようになったのは1990年頃からである。それに先立ち、1975年に高校進学率が90%を超え、大衆教育社会が形成される中で、教育の形式的平等主義が教科書を均質化し、教師が「みんなとおなじ」安定教材を支持するようになった、という分析も加えている。

 ところが、この「国民教材」化とともに、多くの批判が出てきたという。それは、『山月記』の読みが道徳的な内容主義に陥り、画一的な授業を繰り返してきたことに対してであるが、著者は『山月記』の授業が、国家に適応するための思考の様式を作り出し、それ以外の思考方法を排除してきたことを疑えない、ともしている。

 しかし、この部分を読む限り、批判されるべきは『山月記』という作品ではなく、授業者たる教師である。『山月記』がそのような状態を誘発する必然性を持っているとは思えず、他の教材ならそれらのような現象を誘発しない、とも思えない。

 また、1990年代はバブルが崩壊し、日本経済の下降が始まる時期である。それは、「一生懸命勉強し、真面目に働けば豊かになる」という価値観が崩れることで、一元的な主題やお説教が通じなくなった時代である。だからこそ、自己規律能力がなく切磋琢磨に努めなかったことで李徴を人間失格とした従来の読みに、疑問が生じてきた。著者はそのように言うのである。そうして、従来とは違う新しい授業方法として提起されたのが、「語り論」であり「読者論」であった、とする。

 私には分かりにくい。教師がたとえ10年、20年と時間を重ね、その中で定番教材として生き続けている『山月記』を繰り返し扱ったとしても、生徒にとっては常に最初で最後である。教師の側が硬直したやり方をしたり、マンネリに陥ったとすれば、その責任は全て教師の側にあることが自明である。過去50年間の指導実践の積み重ねの中で云々といった考え方をする必要もない。私が今回の連載の「その1」で書いたことだが、大切なのは、教員自身が常に作品にゼロから臨むことだ。『山月記』が定番教材となることに何の問題も無くても、『山月記』が教師にとって「いつものあの作品」になってしまった時、授業は面白いものでなくなるのではないだろうか?

 著者は、「語り論」「読者論」の実際に触れながら、最後に課題として、高校ではいまだに正解主義が主流であることを問題とし、生徒による読みの多様性・多義性を認められるようにすること、生徒による読みや言語活動を重視した実践の必要性を訴えている。ここで、私の思いは「その2」に戻る。確かに著者の意見は間違いではない、だが、著者は本当に現場の教員なのであろうか?現場の人間なら、定期考査がある中で、定期考査と矛盾しないどのような実践が可能なのか?という問題を避けられないはずだ。

 文章には、誰が読んでも同じ理解に至らないとおかしい部分と、多様な解釈を認めるべき部分がある。ほとんどの学校で、定期考査の成績は学業成績の8割以上を占めるように規則が作られている以上、授業時間の8割以上は、誰が読んでも同じ理解に至らないとおかしい部分を扱うことに費やされるのだし、平常点と称される残りの2割以下の部分も、『山月記』の読み方に全てを当てるわけにはいかない。だから、いろいろな読みを追求し、鋭い読みの可能性を提起したことの多くは、やっても「無駄」に終わってしまうことになる。

 だが、言葉の意味など、『山月記』の鑑賞に至る前の基礎的な知識もそれなりに大切である。誰が読んでも同じ理解に到達するはずの部分で、その理解になかなか自力でたどり着けない生徒も現実には多い。だから、著者やかつての実践家、研究者などがあまり面白いとは思わないであろう「誰が読んでも同じ理解に至らないとおかしい部分」を、丁寧に確認していく作業にも、生徒の状態によっては十分な価値がある。だから、授業で何を大切にすべきかは事情によって大きく変わるはずである。サテライト講座ではダメであり、教師という生身の人間が教室という場に存在することの価値も、その辺にあるのではないかと思う。

 この本を読んで、『山月記』を軸として、戦後の国語教育の歴史についてはいろいろと多くを知ることができた。しかし、それは、残念ながら、現在の私の授業を豊かにするもの、向上させるヒントになるものではなかった。論文になるような「学問」は、結局、現実には力を持たないということなのであろうか?(終わり)