映画『天心』と岡倉天心



 昨日は、ある人から誘ってもらい、松村克弥という映画監督と、石巻市内で酒を呑んでいた。数名のごく小さな会である。何でも、最近『天心』という映画(出演は竹中直人中村獅童ほか)が完成し、11月半ばから一般公開が始まるということで、人の縁もあり、その宣伝のために石巻に来たのだという。

 タイトルになっている「天心」とは、岡倉天心のことで、今年はその生誕150年、没後100年という記念の年に当たる。天心晩年の、茨城県で過ごした時期のことを、地元茨城県北茨城市の協力の下、多くの人のカンパによって作った映画だという。

 酒席に先立ち、一回り大きな会で、映画の予告編その他の映像を見た上で、監督による1時間ほどの講演があった。私は、岡倉天心なる人物にたいした思い入れがあるわけではないが、なにしろ元来「舞台裏が気になる人間」なので、映画が出来上がるまでの経緯をかなり詳細に聴くことができたのは、とても楽しかった。飾らず、気さくな人柄で、酒席も大いに盛り上がった。

 岡倉天心と言えば、私の場合、高村光太郎東京美術学校に入学した当時の校長として有名である。光太郎の父・光雲を、彫刻科の教授として招聘したのも天心だった。だから、どうしても光太郎の目を通して天心を見ることになってしまう。

 光太郎は、天心が発案したという美術学校の制服を恥ずかしがっていたのは確かだし、何しろ父・光雲とは「美」についての考え方がまったく違うので、私は、光太郎が天心に対しては相当批判的な目を向けていると思っていた。酒席でそんな話も少ししたのだが、帰宅してからふと気になり、『高村光太郎全集』をパラパラと見てみると、確かに、天心の絵を見る目は信じていないし、「無責任なディレッタント」とこき下ろしたりしている。光太郎によれば、世間でよく言われる「横山大観菱田春草を育てた」にしても、まるで「悪影響を与えた」と言った方が正しいかのようだ。一方で、教授として採用した光雲らを、京都や奈良に派遣して古美術を学ばせようとしたことは「卓見」として評価するなど、かなり是々非々の態度を取っていたことが分かった。昭和12年頃には、彫刻家として、天心像を作る構想も持っていた。

 以前、天心について幾ばくかの書物を読んだ時には、上昇志向の非常に強い、立身出世主義型の俗物だと思った記憶もある。そもそも、天心は東京帝国大学で草創期(第1回生?)に政治学や経済学を学んだ文部官僚で、自分自身は芸術家でも何でもなかった。その経歴を考えれば、俗物であることもまた無理からぬことであっただろう。有名な「アジアはひとつ」だって、かなり衝動的なコピーであって、あまり深い思想が込められているようには思えない。

 どうも、私の勉強が中途半端で、知識が断片的であるからに過ぎないが、本当によく分からない人である。学ぶ価値のある人かどうかさえ分からない。むしろ、この人が面白いとすれば、この人自体が面白いのではなく、この人を通して見える時代が面白いのだとも思う。

 映画『天心』の、石巻での上映予定はまだないそうである。しかし、話を聞きながら、「見てみたい」という気持ちはずいぶん高まってきた。もっとも、「学術的には見ないで下さいね」とずいぶん念を押されてしまった。残念ながら、「学術的に」見るほどの「学術(知識)」がない。天心が晩年を過ごしたという、茨城県の五浦海岸へも行ってみたい。