国民教材(?)『山月記』・・・その4



 一つの文学作品を考える上で、表現と内容という二つの側面があることを意識することは必要だろう。私たちは、往々にして「内容」だけを意識しがちだが、同じ事が書いてあっても、「表現(書き方)」によって受ける印象は大きく異なる。

 『山月記』の表現で最も特徴的なのは、冒頭の荘重な漢文調である。

「隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所すこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」(『山月記』本文)

 もっとも、このような一見難解な表現は袁傪と出会った当たりで収束し、その後の対話の場面では、現代のあまり成績のよくない生徒でもおよその意味が分かる程度の言葉遣いに落ち着く。日頃、文学作品に接する機会のあまりない生徒なら、この作品を朗読するのはなかなか大変だが、にもかかわらず、朗読を聴かせればどんな生徒でもそれなりに耳を傾ける。これは、作品の力の一側面だろうと思う。

 昨日私は、「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いを、あくまでも「李徴に欠けていたものとは一体何か?」という比較においてではあるが、重要な問いとして指摘した。しかし、本当は、文学作品を読む時に「なぜ?」を重要視しすぎるのはよくない。本来、理屈に合わない所に面白さがある人間の性質が、「なぜ?」によって、理屈で割り切れる範囲のものへと矮小化されてしまう可能性があるからである。

 その意味で、『山月記』で最も面白いのは、袁傪と出会った後の李徴の心理を追うことであるかも知れない。襲いかかろうとして袁傪に気付いた虎=李徴は、草むらの中で袁傪からの呼び掛けに答えようか答えるまいか悩み、沈黙する。この時の、旧友に虎としての姿を見られたくないという気持ちと、旧友とぜひ話がしたいという気持ちの葛藤から始まり、袁傪にいままでのいきさつを語りながら、激しい後悔と自己嫌悪にさいなまれ、最後には絶望的な悲しみの中で旧友を見送る。この心理の変化を丁寧に追うことは、生徒にとっても面白い作業のようだ。また、本文中に描かれた月その他のものから、時間の経過も含めて、情景を思い浮かべられるようにする作業も大切だ。

 これらの結果として、『山月記』は、授業で扱いにくい作品でもなければ、つまらない作品でもない。その結果として、多くの教科書に採録され、『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』の著者が『山月記』を「国民教材」と呼んだとしても、決して不思議なことではない。

 私が高校教員になった頃、教科書というのは、基本的に質の高い文章だけを採録していた。「教科書に載るほどの作品」という言い方は、それなりの価値を持っていた。「読んで感動できる」ということと、「授業で扱いやすい」は必ずしも一致せず、素晴らしい作品であるにも関わらず、授業では扱いにくいという作品も確かにあったが、そのような作品は、授業でネチネチ扱わず、一読して終わりにすればよいだけの話なので、ともかくも質の高い文章を採録するというのは正しい姿勢だと思われる。

 ところが、この25年間で、どうもそれは怪しくなっている。最近は、明らかに「これはひどい!」と言いたくなる文章もよく目にする。なぜそうなったのか?それは、先日(10月16日)の子育ての話と重なるが、商業主義的な迎合である。

 教科書会社の営業担当者が高校に来た時、よく口にするのは、「入試との関連」と「生徒の興味関心を引き付ける」作品を選んだとのアピールである。大学入試によく出て来る人の文章、生徒が知っている人(流行作家やタレントの類)の書いた文章を採録することが、セールスに直結するらしい。だが、私はこの発想が教科書をダメにしていると思う。本来必要なのは、生徒にどのような文章を読ませたいか、という観点であって、どのようなものを生徒は喜ぶか、であってはならない。生徒が「自ら読みたいとは思わない」が、教師が「生徒に読ませたい(生徒が読んでおいた方がいいと考える)文章」を、生徒にとって「読んでよかった」文章にするのが教師の仕事ではないか、と思う。そうでなければ、生徒は世界を広げていけない。これを「押し付け」と言うのは間違いだ。そこで教師が自分の価値判断を信じることができず、「押し付け」となることを恐れて、誰かが選んだ教材を、指導書の指示に従って授業で扱うしかないなら、どっちみちたいした授業はできないのだから、教師など辞めた方がいいと思う。

 世の中には無限と言ってよいほどの文章があるわけで、それらのうちのどれが教科書にふさわしいかを判断する時、どうしてもこれでなければならない、というほど絶対的な文章があるとはあまり思えない。教科書に載るか載らないかは、多くの場合、紙一重であるだろう。だが、何かしらの事情によって、その一つに『山月記』が入ったとしても、私は決して不都合とは思わない。

 著者は、戦前の国定教科書との関係、『山月記』が「古潭」から切り離されたこと、『中島敦全集』の毎日出版文化賞受賞、「現代国語」という科目の創設といったこととの関係で、200ページにわたって『山月記』を論じて、いよいよ第5章で、『山月記』がなぜ「国民教材」とも言うべき教材となったのかという問題に対して、答えを示している。その答えは、一つに、読解練習にほどよい謎が含まれている、ということであり、もう一つに、生き方や人間性を考えさせる作品だから、というもので、オマケのようにして文体や虚構性が付け加えられている。これらは、私が『山月記』を、熱烈にではないにしても、定番教材としても差し支えがない程度に支持する理由と、基本的に一致している。だとすれば、ここに至るまでの200ページの議論って一体何だったの?と思うが、それはともかく、著者は、『山月記』が「国民教材」となったことへの批判的意見について、更に相当なページを費やして検討を加えている。(続く)