論理国語に「手の変幻」!

 今、来年度に使う教科書の選定作業をしている。一度選べば、少なくとも3年は使ってみようという話になるので、毎年ゼロから選び直しをするわけではないのだが、なにしろ来年度は新教育課程の完成年度である。学習指導要領に基づく教育課程は、10年に1度の学習指導要領改定と共に実施され、1年生からスタートして、学年進行で3年かけて旧課程と入れ替わる。来年度はその最終年度なのだ。
 すると、少なくとも3年生の教科書だけは、全ての高校でゼロから選ばなければならない。私の勤務先の場合、3年生は「論理国語」という科目を勉強することになっている。私は、見本として届いた13冊の「論理国語」の教科書に目を通していた。
 「論理国語」がいかなる科目であるかは、学習指導要領を読んでもよく分からなかったが、教科書を見ていると、なんとなく「こんな科目なのかなぁ」というイメージはわいてくる。それでも、非常に強い違和感を抱いたのは、清岡卓行「手の変幻」(教科書によっては「ミロのヴィーナス」=内容同じ)が13冊中8冊の教科書に載っていたことである。
 この作品は、驚くべき長期にわたって高校国語の教科書に採録されている。世代を超えて価値が認められるものを「古典」と呼ぶなら、ほとんど「古典」になってしまいそうな勢いだ(→古典とは?)。
 しかし、この作品に対する私の評価は非常に低い。作者は、ミロのヴィーナスが魅力的であるためには、腕を失っている必要があったとする。逆に言えば、ミロのヴィーナスは両腕を失ったからこそ魅力的なのだ、ということになる。この発想自体が、まったく「論理」からは遠い、感情的、直感的なものだ。そしてご丁寧に、作者はそれを文章全体の中で、手を変え品を変えて繰り返す。出発点が感情的であるために、その後の展開も論理的にはならない。自分の思い込みを、いかにももっともらしく、論理のようなものをちりばめながら繰り返す。その自己陶酔的な論調に、私はうんざりする。およそ「論理」からこれほど遠い作品というのは存在しない。
 私自身、感情的な文章が嫌いというわけではない。しかし、学校の授業で文章の読み方を練習するという場合、多くの人が同じ結論にたどり着くためには、ある程度の論理性が必要だ。あるいは、中原中也の詩のごとく、感情表現のあり方そのものに価値がなければならない。「手の変幻」は、それらのいずれからも遠い。なぜそんな文章が、これほど長く教科書に採録され、しかも、よりによってなぜ「論理」国語なのか?教科書が、この文章がいかに論理から遠いかということを論理的に証明せよ、と言っているようにも思える。もちろん、それは悪い冗談。
 おそらく、何かの事情で(おそらく、ミロのヴィーナスに腕がないことに積極的な価値を見出したという意外性だろう)、2回か3回、教育課程の改訂を挟んで作品が載り続けてしまうと、教師の側に慣れとでも言うべき安心感が生まれ、予習の手間を端折りたいという気持ちもあって、「必要な作品」にされてしまうのではあるまいか?これは「古典」の誕生とはまったく違う事情だ。私は今までにも何度か、教員の「問い直す」能力の低下を嘆いているのだが、そんな流れの中で、「手の変幻」も教科書からはじき出されることなく生き残っている、というように見える。
 教科書は、その時代時代の模範とも言うべき名文を採録すべく、プライドを持って改訂を続けて欲しいものだし、現場の教員も、その内容を批判的に評価していくべきだろう。