「思考の肺活量」禍

 まったく突然、秋になった。先週の木曜日に気温が急降下したと思ったら、土曜日には湿度も下がり、本当に爽やかな秋になった。1週間前には真夏日で、夜も熱帯夜に近かったのに、昨日の石巻は、最低気温が14.3℃で、平年(15.4℃)さえも下回ったのだからびっくりだ。家中窓を閉めて、毛布をかぶって寝ていた。温暖化が進むと、春秋がなくなって、夏と冬だけになるという話も聞いたことがあるが、その前兆なのだろうか?

 さて、今年に入ってから、教科書に載っている文章が悪すぎるというようなグチを2回書いた。やり玉に挙げたのは、「手の変幻」(→こちら)と「水の東西」(→こちら)である。今日、第3回を書く。東京書籍の「現代文A」という教科書に載っている鷲田清一「思考の肺活量」という文章だ。
 作者は有名な哲学者。某有名国立大学の総長も務めたことがあるエラーイ人である。確か、その文章が大学入試で最もよく出題される人になったことがあり、その関係もあって教科書等で文章が使われるようになったと記憶する。
 「思考の肺活量」は、比喩を多用した哲学論である。

「自分にとってあたりまえのことに疑いを向け、他者の意見によって自らのそれを揉みながら、ああでもない、こうでもないと、あくまでも論理的に問いを問い続けるそのプロセスを歩み抜くには、ちょうど無呼吸のまま潜水をし続ける時のような肺活量が要るのである。」

 タイトルは、哲学とは何かということを解説したこの部分に基づいている。作者は、「肺活量」をこの直後で「思考のため(←「溜め」)」「思考の体力」「すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性」と次々に言い換える。要は、哲学をする時には、答えがあるのかないのか分からないようなことをじっと我慢して考え続けることが必要だ、と言っているのである。私は共感する。
 ところが、直後の段落を見てみよう。

「というのも、個人生活にあっても社会生活にあっても、だいじなことほどすぐには答えが出ないからである。いやそもそも答えの出ないことだってある。だから、人生の、あるいは社会の複雑な現実を前にして私たちが紡ぐべき思考というのは、分からないけれどもこれはだいじということを見いだし、そしてそのことに、分からないまま正確に対処することだと言ってもいい。」

 作者は、この後の部分で、「複雑な現実を前にして私たちが紡ぐべき思考」の具体例として3つの例を挙げる。最も分かりやすい「ケアの思考」で見るなら、「正解がないままスタッフたちは、猶予もなしに治療と看護の方針を決めなければならない」とされている。つまり、臨機応変、瞬間的に最善の選択をすることこそが大切だということだ。
 私は完全に混乱する。え?作者はじっと我慢して考え続けることの大切さを訴えようとしていたのではないのか?確かに、現実においては、そうそういつまでも考え続けているわけにはいかない。分からなくてもすぐに対応をすることが必要な場面は多い。だが、答えの出ないことを我慢して考え続けることと、分からなくても対処することがなぜ「だから」で接続されるのか・・・?何回、いや、何十回読んでも私にはよく分からないのだ。「だから」を使うなら、その後ろには、「哲学は現実に対して無力なのだ」と書いた上で、「人生の、あるいは~」と続けるべきだろう。作者の書き方なら、ここは「しかし」を使うべきだ。
 もちろん、そう書けば、「人生の、あるいは~」の部分は、哲学についての話ではないことになる。ところが作者は、それもまた哲学だと考えているらしい。すると、やっぱり作者にとっては「だから」なのだ。そしてこの後、「答えが出なくても我慢して考え続ける」いわば理想主義的な哲学と、「分からなくても即座に最善の対処をする」現実的な哲学とが、まったくぐちゃぐちゃに論じられる。正反対とも思える二種類の思考がどのように関係するのか、どのような点で哲学として共通するのか、といった議論・説明は一切ない。
 なぜこんな文章を書く人が、一流の哲学者として評価され、有名大学の学長にまでなるのだろう?そして、なぜ教科書会社はこんな文章を採録し、文科省の鬼検定官はこの文章を適切な教材として認めるのだろう?作者も、仮に何かの間違いでこんな文章を書いてしまったとしても、教科書に載せるという話があった時に読み直して、その問題に気付けないのは変だ。
 いくらしっかりとした技術を持っていても、論理が混乱した文章を整然と読み解くことはできないはずだ。技術があってもなくても、混乱するだけである。すっきりとした説明にならずに教師も生徒も混乱し、論理のでたらめさを解説しても生徒は混乱する。
 とにかく、最近は教科書の文章の質が低すぎて、授業をすることを苦しいと感じることが多い。駄文でいい授業は絶対にできない。「思考の肺活量」レベルだと、問題がはっきりしすぎていて、自分の未熟を恥じる気にもならない。悪いのは教科書であり、そこに載っている教材だ。「羅生門」を読むために2年生の教室に行く時の足は軽い。