「哲学」のない時代の哲学書



 一昨日、久しぶりに(?)「哲学」ということに触れた。哲学科卒の哲学者崩れ(挫折者)があまり偉そうなことを言うのも申し訳ないが、これの普及・促進は、私の、教師として、社会人としてのライフワークみたいなものである。

 私の語る「哲学」とは、一般に哲学者が研究している「哲学史」ではなく、現在形の精神運動だ。哲学・倫理学・美学が、哲学の三本柱と言われ、真・善・美がそれぞれの目指す究極の価値観である、というのは正しい。「哲学」とは真理を目指す作業であり、それは、「それは本当に正しいのか?」「〜とは本来どうあるべきなのか?」「なぜ〜なのか?」という三つの問いを、あらゆる事象に常に当てはめながら、決して見えやすいとは言えない真実、物事の本来在るべき姿を探し出していくことなのである。どんなに多くの人が正しいと言っていることでも、必ず一度は疑わなければならない。その対極にあるのは、「みんながそう言う(している)から正しいのだろう」という相対的な思考や、「どうするのが一番得か?」という利益に基づく判断だ。

しかし、単に考えると言っても、やはり何かしらの基準は必要である。私は、少なくとも民主的な発想を基本とするならば、どうしてもそれを「自由」と「平等」に置かなければならないと思う。つまり、できる限り冷静・公平な目を持って「それは本当に正しいのか?」「〜とは本来どうあるべきなのか?」と問い直した上で、何が正しいのか、の基準、それに基づく行動の指針としては、あくまでも「自由」と「平等」とを拡大する方向に進ませられるのかどうか、が重要だということである。そして、その実現の過程で、それらを具体的に固定化するものとして生まれてくるのが「人権」なのである。

 さて、前置きが長くなった。

 先月末、宮水の有能なる図書館司書Aさんが、「ブログの2月1日の記事(少年の死刑判決)を読みました、自分としては共感する所大きかったのですが、では平居先生、この本なんかいかがですか?」と言って貸してくれたのは、森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(ダイヤモンド社、2013年)であった。一読して価値ありと感じ、自分で買って更に2回読んだ。ダイヤモンド社の雑誌『経』に連載された「リアル共同幻想論」をベースにしたものだという。一部冗長な、連載記事の字数増やしみたいな部分やオマケのような章もあるが、基本的にたいへん立派な「哲学書」である。もちろん、ごく一般的な「評論」に分類されるであろうこの本を、私があえて「哲学書」と呼ぶのは、上に書いた私の哲学観に基づいている。

 作者は、世の中が当たり前だと思っていることに疑いを差し挟み、それが本来どうあるべきかということを、的確に暴き出し、それとのズレを計ることによって現実批判をしている。しかも、作者が徹底的に大切にしようとしているのは第一に「命」であり、それが存在できている次元においては「自由」と「平等」だ。これが、哲学的な思考、観察眼でなくて何だろう。その結果、当然のことながら、私のこのブログとも重なり合う所が甚だ多いのだが、向こうはプロのジャーナリスト・映像作家である。事実を知ろうとする姿勢の厳しさ、取材の深さが私とは桁違いなので、その分、事例も豊かで、説得力にも富む。得に私のお勧めは、あえて三つに絞れば次のような章だ。

「非国民で売国奴の僕は/この国でますます居場所を失うだろう」

「安倍首相、ご厚意ありがとう/でも歳も近いあなたに指導はされたくない」

「テロが起きても厳罰化や/死刑制度の復活を望まない国」

 作者は、言動の結果として、匿名のネット右翼と呼ばれるような人々から激しい攻撃を受けているらしい。少し冷静に考えれば、作者の言の正しさが分かりそうなものなのに、決してそうはならないのが哀しい。それこそが、当初のタイトルにもある「共同幻想」の怖さなのだろう。


(補)この本を読んでから、昨年9月18日に内田樹『最終講義』について、「哲学の快感」などという一文を呈したのは不覚、若しくはサービス過剰であった、と思った。あえて撤回はしないけど、汚点に近い(涙)。