不動の原点は「平等」

 私が昨年9月末に還暦を迎えたこと、したがって、必然的に今年3月末で定年になる(ただし、再任用という形で雇用は継続され、生活は何も変わらない)ことについては、既に何度か触れた。
 いよいよその瞬間が迫ってきたところで、この半月ほど、私は教員生活の中で何をしてきたのだろうかということを自問していた。ライフワークが「哲学する」ことを教えることであったことはすぐに分かる。このブログにも、それについての言及をいくつも見出すことができる。しかし、今、それらの記事を読み直してみると、自分にとって自明でありすぎるためか、肝心なことが明瞭に書いていなかったりする。というわけで、今までに書いていないことを、少し補足的に書いておこう。

 私が「哲学」を教えることをライフワークとするようになったのは、「哲学」とは何か?ということについての自分なりの見解を持つようになったことによっている。
 いつ頃からかは分からないが、心の中に一つの問題意識があった。それは、私なんか絶対に思いつかないような手口による様々な犯罪の話を聞いて、犯人は頭のいい人なんだろうなぁ、と思いつつ、そんな罪を犯して人を困らせるということは、やっぱり頭の悪い人ではないのだろうか?と思ったことによる。彼らは頭がいいのか悪いのか・・・?思えば、同列に論じて申し訳ないが、政治家だって似たようなものだ。東大卒を始めとして、高学歴の人達がずらりと並び、中には医師や弁護士といった高度な専門資格を持つ人も少なくない。しかし、言っていること、やっていることを見れば、どう考えてもエゴイスティックでバカげていると思えるようなことが多い。彼らは頭がいいのだろうか?悪いのだろうか?私が本当の意味で「頭がいい」と思える人というのは、どのような頭の使い方をしているのだろう?
 そんなことを考えていて、ある日、ふと気が付いたのは、彼らは、与えられた、もしくは自分たちが設定した目標を実現させるための能力は非常に高い、その一方で、その目標が妥当なものであるかどうかを問い直す能力、それが遠くの人や将来の人にどのような影響を与えるか見通す能力は極めて低い、ということである。つまり、今現在の自分(たち)の利益のためには頭を使えるが、ただそれだけ、ということだ。この時、私の頭に浮かんできたのが、プラトンソクラテスの弁明』に登場するソクラテスの「無知の知」という逸話だ。そこには、「哲学」の最も基本的な姿がある。
 よく「自分の頭で考えろ」ということが言われる。しかし、自分で考えるだけではだめなのだ。世の中には、正しい考え方というものがあって、その正しい考え方に基づいて考えなければ、今の自分だけが幸せになって、他人や将来を不幸にする。では、その正しい考え方とは何か・・・それがソクラテスの目指したものであり、「哲学する」ということなのだ。ある時、私はそんなことに気付いたのである。
 ヘーゲルであれ、カントであれ、ハイデッカーであれ、王陽明であれ、それらのいわゆる哲学者が残した言葉も、それをただの結論として学ぶのであれば、それは「哲学史」もしくは「哲学学」であって、「哲学」ではない。彼らが言ったことについて、それらは本当なのだろうか?と疑いを差し挟むことこそが「哲学」だ、ということだ。おそらく「哲学」は、「哲学する」という現在形の動詞で表現するべき精神活動なのである。
 「哲学」という言葉は「Philosophy」の訳語として、明治時代の日本で作られた言葉だ。「Philo」は「愛する」、「sophy」は「知識」という意味の古代ギリシャ語から来ていて、「知識を愛する」という意味だということはよく知られている。なぜ「知識を愛する」ことが「無知の知」と結びつくのか?それは、本当の意味での「真」や「善」を探し求めるためには、広い知識=広い視野が必要になるからである。
 ここで、幼い子どもが食事をしている場面を思い浮かべてみよう。右手の所には水の入ったコップがある。そこに、母親がホットケーキを差し出した。子どもは大喜びでホットケーキを食べようとする。その時、子どもの意識からコップは消え、ホットケーキに向かって伸ばした手の肘でコップを倒してしまう。こんな光景はどこにでもあることだろう。おそらく、大人だったらこんなことはしない。
 このことは、広い範囲が見えていることこそ、正しい選択、正しい行動をするための条件だ、ということを物語っている。この場合、「より広い範囲」というのは、空間だけではなく、時間的にも、である。
 食事の時にテーブルの上の状況を把握するというのは、ひどく単純な話だ。しかし、「私はコップを倒すようなバカなことはしない」と言っている人でも、問題が複雑化したり、目の前の利益(=誘惑)が非常に大きなものだったりすると、それ以外のことが見えなくなってしまうということは珍しくない。何かをすることが、遠くに居る誰かに、あるいは未来を生きる誰かにどのような影響を与えるのか?そこまで考えなければ、本当の「真」も「善」も存在しない。だから、知識を愛し求めることと、「真」「善」の追求は深く関係するのである。
 とは書いたものの、ここにはある前提が存在している。自分一人にとっての「真」「善」は存在せず、「真」「善」は、遠くの人にとっても、未来の人にとっても幸せを与えてくれるものでなければならない。ここにあるのは「平等」という価値観だ。平等でなければ、人の生活を踏みにじり、自分だけがいい思いをすることも許される。「平等」は哲学する時の不動の原点として持つべきものなのではないだろうか?