デジタル担当相?・・・求む「哲人」

 菅新政権が誕生した。私には何の期待もない。絶望感にも近い「うんざり」があるだけである。もっとも、野党にも感心しない。立憲民主が言っている期間限定「消費税ゼロ」なんて、ただの人気取りである。私は消費税廃止論者だが、消費税を廃止するためには法人税所得税増税が不可欠だ。たとえ一時的にとは言っても、財源を国債に頼るというのは最悪だ。
 話がそれかけたので、元に戻す。
 菅政権は、どの世論調査を見ても、発足時の支持率が65%前後だそうである。3人に2人が支持していることになる。新首相が得体の知れないことを言ったりやったりするよりも、こちらの方が更にたちが悪い。3人に2人は、どんな理由で新政権を支持するというのだろう?どう考えても、評価や期待に値するものは何もないのだが・・・やっぱり、政治家は国民の質の反映なのだな。
 新政権で何かと話題になるのが、デジタル担当相を置いたということである。近いうちにデジタル庁の新設を目指すという。しかも、その担当者になった平井某という御仁は、政治家の中では特にデジタル機器に詳しい人らしい。それがかえって悪い、というのがなぜ分からないのか?
 国政におけるデジタルの担当者がやるべきことは、そんじょそこらの電気屋のおじさんがやるべきこととは違うのである。単にデジタル化を推進することが使命であってはならない。デジタルに関する知識など、必要に応じて誰かに聞けばよい、もしくはやってもらえばよい。デジタル化=パソコン、インターネットは効能が非常に大きい分、危険もまた大きいのであって、無分別に推進して良いものではない。したがって、政府におけるその担当者は、デジタルに詳しい人であるよりも、社会の中でデジタルがどのように活用されるべきか、あるいは活用されないべきか、しっかりと「哲学」出来る人でなければならない(→哲学とは何かについての参考記事)。健全な社会を作るための政治体制は、ギリシア時代、プラトンが考えたこと(「哲人政治」)から変化してなどいないのである。
 しかし、悲しいことに、しっかりと「哲学」し、それに基づいて事を進めようなどという気配は微塵も感じられない。デジタル化の推進は「絶対善」であると認識され、疑う余地など想定されていないようだ。問題視されるのは、せいぜい、SNS上での付き合いから犯罪に巻き込まれることや、電子決済のトラブルをどう回避するか、というくらいのものだろう。
 さぁ、今からますますデジタル化の嵐が吹き狂う。その結果は・・・皆がますます灰色の男たちに時間を奪われ、人間関係が分断され、そして最も恐ろしいのは、大人になってからデジタルに接したのではなく、デジタルの中で幼い時から成長した人々が、ゆがんだ人間観や世界観を身に付け、そのゆがみには全然気付かずに、世の中のあり方を論じるようになることである。もちろん、そうして世の中が滅茶苦茶になった時、その根っこに無批判なデジタルの推進があったことになど誰も思い至らない。幸せなものである。