ギリシャ哲学が全てだ


 最近、ある人と話をしていて、私が哲学科の卒業生だという話になった時、なぜ哲学の勉強を止めたかと聞かれたので、私は以下のように答えた。(対話において私が語った部分のまとめ)

「私が哲学を止めたのは、「研究」としてだけだ。哲学とは何かということに気付いた時、哲学を学問の対象として行うのは本来的ではないな、と思ったのだ。頭が悪くて理解できないだけかも知れないが、哲学とは何かということを理解するためには、ギリシャ哲学、いや、その中でもソクラテスに関する若干の知識があれば十分であると思う。その後の哲学は、哲学がその実践的機能を放棄し、自己目的化への道を歩んだものなのではないだろうか?哲学者の方々には失礼だが、悪く言えば、「暇人の遊び」である。

 ソクラテスは、自分が無知であると自覚していた。これは、自分が知者であると信じなかった結果であり、自分の正しさを疑った結果である。他の人たちは、その点に疑いを持つことが出来なかった。世の中のあらゆる事象について、「それは本当の姿なのか?」「それは本当に正しいのか?」「間違っているとするなら、何がいったい正しいのか?」「それは本来どうであるべきなのか?」・・・、こういった疑いによってこそ、物事の真実と正義は明らかになるだろう。そしてそれは、人間の意識の本質といった純粋に哲学的な知についてよりも、次々と起こる現実の出来事についてこそ為されるべきなのである。つまり、人間というのは、目の前で起きる様々な現象に対応することを絶えず迫られるのであるが、その対応が最善のものであるためには、その対応が最善であるかどうかを疑う必要があり、判断の根拠となるべき原点(規範)を探し求める必要がある。

 哲学は現実に対して力となる、実践的なものでなければならない。この場も含む、あちらこちらでの私の発言の全てが、そのような懐疑的作業の結果である。ヘーゲルサルトルもハイデッカーも踏まえてはいないけれども、それこそが「哲学」だと信ずる。そして、哲学の勉強を止めたとは言っても、四半世紀にわたって私は高校でそのような意味での「哲学」を生徒に伝えようと努めてきた。私は決して「哲学者」ではないが、十分に「哲学徒」であると自負している。」

 こんなことを話していて、今更ながらに、自分の思考の枠組みが陽明学的であると気付かされる。大学で哲学科に籍を置き、自分が最も共感できる思想として陽明学を研究対象として選び、陽明学を研究対象としてしまったがために、哲学を研究対象とし続けることが出来なかった。そして、ギリシャ哲学(と一括するのはまずいのだけれど、便宜的にそう呼んでおく)にしても陽明学にしても、原理は単純で、それをとことん実践することは極めて難しいという性質を持つ。もちろんそれは「常識」の性質でもある。

(参考→ちょっとした哲学の話