ちょっとした哲学の話


その一

 今年の三年生の授業で、森鴎外の『高瀬舟』を扱った。言うまでもなく、この作品は江戸時代の京都を舞台とし、遠島の刑に処せられる弟殺しの罪人・喜助と、彼を大阪まで高瀬舟で送り届けようという同心・羽田庄兵衛との対話、及び喜助の話に対する庄兵衛の述懐で成り立っている。主題は「足ることを知る」ということと「人の死を手助けすることは許されるか」の二つであり、これは作者自身も『高瀬舟縁起』という文章の中で明らかにしている。

 授業の最後に、生徒諸君に感想を書いてもらい、それを私の方でまとめて紹介した上で、多少の議論をした。

 諸君の作文には、一つ目の主題「足ることを知る」について、喜助が足ることを知っていることを、作者はそれが美徳であるかのように書いているが、それは同時に向上心の欠如であって美徳ではない、という意見が多かった。その是非を考える材料として、私は『無名抄』の中の「永秀法師数寄の事」という一編を提示し、読んでもらった。こちらは知らない人も多いと思うので、まず簡単に内容を書いておくことにする。

石清水八幡宮別当(最高職)であった頼清という人物の遠い親戚に、永秀という、貧しいが風流を好む法師がいた。笛を吹くのが好きで、明けても暮れても笛を吹いていた。ある時、頼清は永秀の貧乏な生活ぶりを気の毒に思い、援助を申し出た。永秀は漢竹という竹で出来た笛が欲しいとだけ言った。頼清は、すぐにそれを与えた上で、更に自ら衣類や食べ物なども与えたが、永秀は石清水八幡宮の楽人を呼び集め、大盤振る舞いをしながら共に笛を吹き、物がなくなるとまた一人で笛を吹き暮らし、やがては当代最高の笛の名人になった。

 この作品は「数寄」ということを表向きの主題として書かれているが、それは明らかに「無欲」ということを重要な要素としている。笛を趣味とすることを除けば、無欲ということが「数寄」のほとんど全てと言ってよいだろう。この作品を百人が読めば、その大半は永秀をまずは無欲な男だと評するはずだ。しかし、よく考えてみれば、永秀ほど貪欲な人間もいない。ただ、永秀は着る物や食べ物、すなわち物、あるいは名声・栄誉に対して極端に無欲なのであって(漢竹の笛一本は、物欲としては問題にならないほど些細なものだろう。また彼は世間から高い評価を得たくて笛の練習に励んだわけではない)、笛を吹くことについては貪欲なのだ。とすると、永秀を「無欲」と評価する私たちの側に、無意識のうちに「欲」についてのある思想があることに気付く。

 現在「欲深い」という表現は、明らかに強いマイナスのニュアンスを持っている。その「欲」として、どのような内容が考えられるか、私たちはどのような欲がある時に「欲深い」と感じ、どのような欲については感じないかということを検証していくと、実は私たちが「欲深い」すなわち醜いと感じるのは、金(物)と地位(権力、名誉)に対する欲に限定されるのではないか、ということが分かる。

 なぜ金や地位に対する欲が醜く感じられるのだろうか。それは無根拠な偏見なのだろうか。恐らく、そうではない。それらを求める時、人は損得ばかりを考えて真偽を考えなくなるからであり、真偽を考えない人間は必ず、目の前のものに振り回されて将来をも他人のことをも考えず、簡単に言えば自分勝手になるからだ、と私は思うが、そのことについては、また後で考えることにしよう。

 「足ることを知る」ことと向上心は矛盾しない。言い換えれば、無欲であっても向上心に富むということは十分にあり得ることだ。喜助は、足ることを知ると同時に、向上心や生きる意欲さえも失ったような生気の感じられない人物ではなかっただろう。鴎外が描いた喜助の晴れやかな表情は、そのことをも物語っているように思われる。

その二

 金と地位に対する欲は醜く、自分の能力を磨こうと意欲することは美しい、ということは、人間の外側に付くもの、更には、外から取り込む全てのものには価値がない、価値があるのは内側から生まれて来るものだけだ、と一般化することが出来ると私は考えている。それはウソだ、と思う人は多いだろう。例えば、勉強して知識を身につけるのは、知識を外から持ってくることであるが、それを悪いことだと思う人は、まずいないと思われる。しかし、事はそれほど単純ではない。

 読書を例に考えてみよう。読書をすることは自分を高めるために重要だ、と言われる。かく言う私自身も、高校生には実にしばしば読書を勧める。しかし、読書によって人は成長しない、というのもまた正しい。

 歴史を勉強しながら、過去の人物に敬意を抱くことは誰にでもよくあることだろう。例えば、私が感心する歴史的人物の一人に周恩来(1898~1976、元中華人民共和国総理)という人がいる。高度な実務・外交能力はもとより、完璧な無私の精神と人間的な温かさ、そして強靱な意志と忍耐力を併せ持つ、希有の人物であると思う。

 私は多くの彼の評伝を繰り返し読みながら、事実はたくさん学び心動かされたが、それを私の生き方にどれだけ反映させることが出来ているか考えてみると、非常に怪しいもので、正直、ゼロ、または限りなくゼロに近いと言わざるを得ない。もっとも、簡単に真似が出来ないから、相手は偉人な訳だ。野球の技術解説書を読んだからといって、技術が向上するわけではないのと同じことである。草花の名前といったごく単純な知識のレベルならともかく、読書を通して生き方そのものに関わることを学び、自分の生き方に反映させることは、どうやら、口で言うほど簡単なことではなさそうだ。

 先日、イラクフセイン元大統領が拘束され、彼が隠れていた農家の部屋から、ドストエフスキーの『罪と罰』が発見された。このことについて、12月27日付の朝日新聞に「ドストエフスキーの会会員」であるというS氏の興味深い投書が掲載されていた。S氏は、フセイン氏がドストエフスキーを読んでいたことを知って大変驚いたそうだ。なぜなら、S氏にとって(これが一般的な理解なのだろうが)ドストエフスキー作品は、人間に「自由」と「個」とを植え付けるものであり、フセイン氏の生き方はそれとは正反対のものであったからだ。S氏は、フセイン氏がドストエフスキーを読みながら、なぜそれと全く矛盾する生き方をしていたのか考えた結果、ある結論に達する。『罪と罰』の主人公は、自分を非凡な人間だと思いこみ、世界を救うための手始めとして老婆を殺す。良心の呵責にさいなまれた彼は、恋人の勧めに従って自首してシベリア送りの刑に服し、刑を終えても改心はしないが、自分の考えの正当性に悩み続ける。フセイン氏はこの主人公の姿に自分を重ね、自分を正当化していたのではないか、というのだ。同じ本でありながら、読む人が違えば読みとることの内容が全く違うという典型的な例だろう。

 本に対して謙虚な気持ちで向かい、そこから得たものを、自分を高めるために使おうという意識がなければ、読書は成長のきっかけにはならない。それどころか、自分を正当化する裏付けとなって、逆に自分を狭い世界に閉じこめるための道具になる。読書家でありながら賢いとは思えない人、豊かな知識を持ちながら立派でない人を、いくら諸君がまだ高校生だとは言っても、一人か二人くらいは思い浮かべられるだろう。また、逆に、読書をすることも少なく、博学でもないのに、人間として実に立派だ、と言える人物も決して少なくはないはずだ。

 勿論、これらのようなことは読書には限らない。だから私は、この節の冒頭で、「人間の外側に付くもの、更には、外から取り込む全てのものには価値がない」と書いたのである。大切なのは、情報を外から取り込む側の心のあり方であり、情報の生かされ方だ。だとすれば、人は自分の内面によって、自分自身を高めてゆく、ということになる。技術というようなものだけではなく、精神的なものについても「価値があるのは内側から生まれてくるものだけだ」という訳だ。

その三

 「その一」の最後で私は、金や地位を求める人は、損得ばかりを考え真偽を考えなくなる、と書いた。ここでは、「真理」を追求する心の働きにいて少し詳しく考えてみたいと思う。それは、「哲学」ということだ。

 哲学とは、物事の本来の姿や意味を明らかにしようという精神活動である。損得勘定が入り込む余地は全くない。哲学は常に「真理」を求める。それは、「〜とは何か?」「〜とは本来どうあるべきか?」といった疑問形で行われる。曰く、「愛とは何か?」曰く、「人間は本来どう生きるべきか?」・・・。これは、既に真理のような顔をしている物に対しては、「本当に〜なのか?」という問いとなる。この問いは無限に連鎖する。だから、この問いをどこまで繰り返し、突き詰めていけるかということが、その人の思索の深さを表すのであり、往々にして「哲学には答えがない」と言われる所以なのである。この問いを、ひたすら繰り返すためには、広い視野、豊かな想像力、柔軟な思考力、冷静・公正であることなど、あらゆる精神的な能力が必要となる。だから、哲学は「学問の王様」でもあるのだ。

 恥ずかしながら、私は某大学哲学科の卒業生である。実は学生時代、私は、哲学を学ぶということについて、非常に後ろめたいものを感じ続けていた。それが、他の学問に比べると著しく有用性に欠けた(このような考え方は、当時の私という人間の浅はかさを物語っていて赤面する)、机上の空論のように思われたからだ。しかし、それはあくまでも大学で哲学を学び、それで飯を食うということについてであって、むしろ「哲学」というものの意義・必要性についての思いは、在学中も、そして今も日々強いものになっている。

 さて、私が哲学の必要性を日々強く感じるようになった理由とは、そのような精神活動は学問としてよりも、むしろ日々の生活の中でこそ行われるべきものである、そして現実には、それが世の中で行われていない、否、恐らくは急速に失われつつあるということに気が付いたからだ。例えば、近年、経済性ということが何かにつけて問題にされる。しかし、世の中に矛盾が生じるのを待つまでもなく、「豊かさとは何か?」「経済的な豊かさによって人は幸せになり得るのか?」といった疑問を差し挟んでみるなら、経済性を重要視しすぎることへの疑問も同時に生じるはずである。無批判に何かを絶対の尺度にして考えたり、みんながやっているからとか、時代の流れだからという発想は、「哲学」から最も遠い思考態度だ。

 こう言えば、「哲学」はやはり机上の空論ではないか、世の中にはそんなものを許さない「現実」というものがあるだろう、と批判されそうだ。なるほど、その通りである。どんなに優れた真実も、現実の前では何の力にもならない、ということはよくあることだ。このことについて、私は次のように言いたいと思う。

 ひとつは、現実を考えることは嫌でもせざるをえなくなるのであって、わざわざ言う必要はないが、哲学は意識的にでないと出来ない、ということだ。もうひとつは、理想主義で何が悪いか、ということだ。理想が現実によってねじ曲げられるのは仕方ない、だからといって理想そのものを積極的に放棄すべきだ、ということにはならないだろう。理想は、最大限守られなければならない。

 私は山岳部の顧問をしているが、山で迷った時の原則として、「元の位置に戻る」というものがある。Aという地点からBへ行った。ここが、本来目指す方角から3度ずれていたとしよう。Bからまた同じくらいの距離を進んでCに着いた。この時、CはBから見て正しい方角からやはり3度ずれてしまった。すると、Aを基準にした場合、最大で6度ずれることになってしまう。これを五回くらい繰り返すと、自分自身が今どこにいるのということも全く分からなくなり、Aを基準にした本来の正しい進路に戻ることも、Aに戻ることも不可能になってしまう。だから、おかしいと思ったら、自分が今いる場所を基準にして考えるのではなく、すぐに原点へ戻って考え直すことが必要なのだ。

 哲学は原点Aを探し求める作業であると言うことが出来る。現実ばかりを見るのは、BやCを基準に考えることだ。「哲学」の喪失は、人間が本来の姿、本来あるべき生き方、更には手に入れるべき本当の幸福を見失い、目先の現象にただただ振り回され、遂には取り返しのつかない事態に立ち至ることを意味するに違いない。実際、現在の日本や世界の混迷の原因は、「現実を見る」と称して、原点を省みることなく、周囲との比較(損得)だけで物事を考える、そのような思考態度の積み重ねにあるのではないか、と私は強く思う。「哲学」することは非常に困難で遠回りではあるけれども、問題を乗り越える唯一の本質的な方法だということを胸に刻みたいものである。

 一般に、深遠な哲学は老学者にして初めて生み出し得るものというイメージがあるように思うが、以上のように、「哲学」が疑問の連続する、理想主義的な精神活動であるということを踏まえるなら、それはむしろ、現実と妥協せず、批判的精神を失っていない(はずの)若者こそが、その主人公である(あらねばならない)と、私には思われる。

 私が若者に期待することとして、それ以上のものはない。

(生徒会誌『創造』に寄稿)