「根性」は死語?

(12月23日「学年主任だより№30」より①)


 早いもので、明日で今年の学校生活もおしまい、既に「生徒指導だより(冬季休業に向けて)」も配られたが、「進路決まったし・・・」とか、「後は卒業するだけ」とか言って浮かれていないで、事故無く、自分を高めることの出来る充実した冬休みを送って欲しい。
 ところで、10月以来、土曜日の毎日新聞に連載されている(毎週ではない)永田東一郎という登山家の伝記を、面白い人だなぁ、と思いながら読んでいる。その第3回(10月30日)に、次のような一節があって驚いた。

(ブログ注:実物の「学年主任だより」では、記事を貼り付け。著作権の問題もあるし、ここに書き写さなくても以下の文章を読むのにあまり不都合はないので省略。)

 「驚いた」と言うのは、「根性」がほとんど死語になっているという指摘についてだ。言われてみると、確かに最近あまり聞かない。
 しかし、「根性」が大切だというのは、別に登山に限らず、何にでも言えることだと思う。「根性」とはこの場合、自分を内側から支える力のことだ。
 私はよく諸君に、「自分を伸ばせるのは自分だけだ」と言う。「根性」も実は同じこと。結局、何をするにしても、人間は内側から出てくるものによらなければ本物ではない、ということなのだ。この記事の執筆者(藤原章生)が「自分に言い聞かせる」と書くとおり、外から「根性出せよ」と言っても、本当に「根性」が出るかどうかは、やはり本人の問題だ。
 最近、「根性」が語られなくなったのは、「ケア」とか「フォロー」とか言って、他人が人の心に世話を焼くようになったことと連動しているような気もする。
 自分を内側から支えるものを、必ずしも「根性」と呼ぶ必要はない。「やる気」でも「思想」でも「信念」でも似たようなものだ。そう言えば、昔、「やる気を出すのも自分のやる気だ」と言って猛勉強し、東大に入ったすごい生徒がいたっけ・・・。そんなことを思い出す。


裏面:12月12日付け毎日新聞「文化の森」欄より、「書店を開いた極地スペシャリスト 荻田泰永さん」を貼り付け。見出しは「読書と冒険は全く同じ」「常に未知の世界を探す」。
平居コメント:冒険と読書が同じだというのは当然だ。更には、書店経営でも同じかも知れない。いずれも「挑戦」であり、見出しにあるとおり、未知の世界を探すこと、或いは、未知を既知に変えようとする行為だからだ。好奇心を持ち、腹の足しには全然ならなくても、未知の世界を探し、その謎を解明することにエネルギーを費やすことは、人間の特権である。君は「人間」をしているか・・・?