陰にウォーレス・ブロッカー氏

(10月15日付け「学年主任だより№21」より①)


 ノーベルウィークが終わった(裏面に10月12日付け朝日新聞「科学」欄貼り付け。見出し「今年のノーベル3賞振り返る」)。物理学賞を受賞した真鍋叔郎さんが元日本人だということで、報道は真鍋さんに偏っていた。読みながらいろいろなことを考えた。
(ウォーレス・ブロッカー氏の訃報貼り付け。)
 これは2019年2月20日の毎日新聞に載った訃報だ。地球全体で海水がどのように動き、熱を運んでいるかを解明するという大きな仕事をした人である。真鍋さんと研究領域が重なり、ご存命なら今回共同受賞の可能性が高かったのではないか?真鍋さんより1歳若いが、亡くなったためにその栄誉は得られなかった。「運命」である。そして、華やかな受賞者の背後に、このような人がたくさんいるのだろうと想像する。
 それにしても、彼らが温暖化に気付いてから50年が経つ。生きていろと言う方が無理な話だ。しかしこのことは、ものの本当の価値が理解されるためには、それくらいの時間が必要な場合もある、ということを意味するだろう。「こんなものには価値がない(役に立たない)」と、安易に言うわけにはいかない。
 多くの新聞報道の中で、最も強く私の印象に残ったのは、次のような一節だ(10月6日付け朝日新聞より)。

「(真鍋さんは)『世界で最もよくスーパーコンピューターを使う男』と呼ばれたが、『自然は無限に複雑。複雑さを競ったらスーパーコンピューターでも勝てない。それをいかに単純化するか、本質をどうつかまえるか。生け花のようなバランスが大切だ』と語っていた。」

 なんとなく、スーパーコンピューターとかAIというと、人間を上回るようなすごい仕事をするテクノロジーだという気がするけれど、物事の意味や価値を評価し、それを入力する人間がいなければ、機能することはできない。人間の能力は偉大だ。
 それにしても、受賞の知らせを受けた真鍋さんはとても嬉しそうだった。私は、もっと怒って欲しかった。自分が苦労をして、50年以上前に文明が温暖化を引き起こすことを指摘して上げたのに、なぜそれを深刻に受け止めず、相も変わらず消費・浪費の生活を続けているのか・・・という怒りだ。


【諸君の真価が問われる・・・成績が出た!】

 成績は各自のもので、全体的傾向にどの程度の意味があるのかは知らないが、とりあえず欠点数に注目すると、〈前期第1回 23人44個 → 第2回 42人82個〉と、人数、個数ともにほぼ倍増した。コロナ休校などで考査範囲がいつもより狭かったことを考えると、実質的には倍増以上と言ってよいのではないか?
 火曜日に行われた学年の先生方の会議では、何人もの先生から「教室の雰囲気に緩みがある(グダグダしている)」という指摘があった。高校生活が少なくなり、卒業が見えてきたからと言って、或いは、進路が決まったからと言って気が緩むと言うことは、あってはならない。

・自分にはまだまだ学ぶべきことがたくさんある。
・多くの人の支えによって自分たちの高校生活は成り立っている。

 これら2点が分かっていれば、気の緩みなど起きるはずがない。勉強する人は自分の無知に気付けるから益々勉強するし、勉強しない人はそれさえ気付けないから益々勉強しない。こうして差は広がってゆく。人生のどの場面でも同じこと。