疑うことを知らないことの結末

 先月の26日に、神奈川県相模原市で、知的障害者19名を殺害するという信じ難い事件が起こった。メチャクチャだと思う。報道の通り、それはあまりにも独善的なゆがんだ正義感に基づく犯行だ。
 だが、この事件は、独善的な、もしくは正気を失った一人の狂人が起こした、例外的な事件とは思わない方がいい。私には、かなり普遍的な問題を含んでいるように見える。それは、自分が正しいと信じたことは、絶対に正しいと思う人間が、確実に増えていると思われるからである。その点で、今回の事件は、ISやその支持者が起こすテロと同じである。国際法もどこ吹く風の中国政府も同じ。学校で授業をしていて頻繁に目にする、「くだんねぇ」「そんなものいらねぇ」とか言って、人の話に聞く耳を持たない生徒もまた同様だ。
 昨秋、私は、自分にとっての人生的なテーマが「哲学する」ことであるというようなことを書いた(→こちら。あるいはこれも)。そして、「哲学」の本質がソクラテスの「無知の知」にあって、それは正しさを疑うことだ、と論じた。そう、今回の犯人にも、ISにも、中国政府にも、聞く耳を持たない生徒にも、共通しているのは、その時の自分の感じ方や考え方の妥当性について、一切疑問を感じていない点にあるのである。人間は、絶えず自分の主張に自分自身で疑いを抱いていなければならない。そのことこそが、正しさにたどり着く道を開き、独善から救い、良識ある行動を生み出して行く。それが「哲学する」ことだ。人間が「哲学」しなくなってきたことによって、独善が横行し、行動は過激さを増してきた。
 小中学校でも「道徳」が教科として設定されるそうである。私はまだ詳細を知らないのだが、何が正しいかを知識として注入するだけなら、たいした効果はあるまいと思う。知識は硬直するし、あらゆる場面を想定した正しい行動マニュアルなんて、準備出来るはずもないからである。本当に必要なのは、「哲学」する姿勢を教えることである。明確な答えのない懐疑を習慣づけるという作業は、教育界全体が総掛かりになって取り組んで、それでも上手くいくかどうか?というほど困難な課題である。
 しかし、学校が政治にどう向き合うか、という問題を見てみれば分かるとおり、学校はむしろ逆の方向へと進ませられている。お上の言うことに疑問を差し挟むことは基本的に許されず、「学習指導要領」=政府のガイドラインを忠実に守ることだけが求められているようだ。学校がそのように管理されながら、教師が生徒に疑問学である「哲学」を教えられるわけがない。最近よく言われるアクティブ・ラーニングに最もふさわしいのは「哲学」だが、左足でブレーキを踏みながら、右足でいくらアクセルを踏んでも、残念ながら車は前に進まないのである。
 今回の容疑者にしてもISにしても、私は文明化によって人間がため込んできたストレスが、一部の人を通して表面化していると見ているのだけれど、文明を放棄することができないとしたら、やはり「哲学する」ことの必要性を、社会全体で共有し、訴えていくしかないのだな。それこそが、この世の矛盾を乗り越える力になる、と私は信ずる・・・と書けば、「なんだ、お前は哲学の必要性に疑いを持っていないじゃないか」と言われてしまう・・・のかな?