知る権利と野次馬根性



 高槻市で、中学生が2人殺された。葬儀も終わって、ようやく一段落、といったところだが、この間、テレビでも新聞でも、この事件についての報道が大きなスペースを占めていた。以前、イスラム国の人質事件の際に書いたことだが(→こちら)、あまり子供達には見せたくないニュースだな、と思う。同時に、これらの報道は、一体何のためなんだろうという疑問が、改めて湧き起こってきた。

 先日、全国教研で金平茂紀氏の講演を聴いた話は書いた。その時、金平氏は、「こんなに殺人事件のような事件の報道ばかりしている国は、日本だけですよ」と言っていた。私は、海外のテレビについて明るくない(ずいぶんあちらこちら旅行はしたが、部屋にテレビのあるような「高級」ホテルに泊まったことがない)ので、確かなことは言えないが、以前にも誰かから同様の話は聞いたことがある。多分、それは正しいのだろう。

 昔、県内のある学校で、生徒だったか、生徒の家族だったかが殺された、という事件があった。某テレビ局が取材に来た。プライバシーにも関わるし、他の生徒への影響という問題もあるので断ったところ、テレビ局の職員から「県民の知る権利をどう考えているのか?」と強く非難されたらしい。

 その学校の教員である友人からそれを聞いて、私は、「そんなのは県民の知る権利とは何の関係もない野次馬根性というやつだろう」と鼻で笑った。ただの野次馬根性も、「知る権利」などという言葉をかぶせられると、ひどくもっともらしく見えてきて、少し気の弱い善人だと、取材を断ることが悪いことのように思えてくるらしいから困ったものである。

 「知る権利」などという言葉は、公権力を監視したり、社会のあり方につて考える材料を提供するために必要な情報についてこそ用いられるべきであって、下品な好奇心を満たすために保障されるべきものではない。推定無罪の原則という問題もあって、罪の確定していない容疑者についてでも過剰な報道は慎む必要があるだろうに、まして、被害者の側についてあれこれ詮索することが必要になることなど、ほとんどあるとは思えない。

 中学生2人が殺されたという事件に、これだけ多くの時間や紙面を割くことができるというのは、日本がいかに平和な国であるかということを物語ってもいるのだろうが、政治の世界で起こっている出来事や社会のあり方については、もっともっと伝えなければならないことがあるはずだ。そのことを思う時、言葉は悪いが、ただの殺人事件について延々と放送を続け、紙上に大きなスペースを割くのは、マスコミの怠慢であると思う。

 今回の殺人事件で、ある種の社会性を帯び、日本人の一人ひとりに考えて欲しいことは、私だったら、中学生が夜に家を出て一晩中商店街で遊んでいながら、親も通行人も容認していたという点であり(→参考記事)、容疑者の側に、殺人事件を起こすに至るような生育上の問題や、その問題を生んだ社会的背景があるのかどうか、という点である。前者については、ネットの世界などで多少問題にもなっているようだが、残念ながら、総じて報道はそんな方向に進んでいる様子がない。

 マスコミは、視聴者や読者の意向を探りながら動いている。いくらきれい事を言っても、彼らにも生活がかかっているのだから仕方がない。野次馬根性丸出しの記事が幅を利かせるのも、人々がそれを求めるからである。結局のところ、日本人全体が賢くならなければどうしようもないのだな。