嘱託殺人と言うけれど・・・

 一昨日、京都のALS患者を死亡させたとして、2人の医師が逮捕された。そのうち一人は、私の母が住む実家のすぐ近所でクリニックを開業している医師である。
 報道によれば、ALSを患って寝たきりの女性が、現在の状況は屈辱的だとして、SNS上で自分を殺してくれる人を探したところ、今回逮捕された2人の医師が応じたのだという。
 嘱託殺人であるのには違いないが、これを「殺人罪」だと言い切ることには少しためらいを覚える。死んだ女性の父親でさえもが、憤りや悲しみだけを表明するのではなく、複雑な気分だと言っているほどの事例だ。つまり、父親として娘の死は忍びないが、娘が精神的に苦しみ、死にたいと願っていたことが本当であると知っているため、ある種の慰めを感じたというのも本心らしいのだ。
 報道されている某容疑者のブログには、「高齢者を『枯らす』技術」というタイトルから始まって異様な雰囲気が漂う。しかし、医師として日々いろいろな患者に接していれば、死ぬことができない苦しみに直面する機会も多いだろうと思う。死ぬことを手伝ってあげたいという気持ちは十分に理解できる。だが、それ以上に理解できるのは、状況によって「死にたい」と思う患者の側の気持ちだ。
 私は、世の中の諸問題や人間の生き方を考えるに当たって、生き物の原点というものを大切にしたいと常に思っている。その観点からすれば、自ら命を絶つというのは決して許されないことだ。しかし、現代においては、医療技術と社会福祉のおかげで、不本意な生を生きることを強いられる場合がしばしばある。例えば、何かの病気になって、治療をすれば助かるが、完全に治る確率と後遺症が残る確率が五分五分で、最悪の場合、寝たきり状態、人工呼吸器が必要になると言われたとする。この時点で治療をしないという選択をするのは極めて困難だし、それはそれで命を大切にする生き物の原点に反する。だが、治療をした結果、「最悪」とされた状況に至ってしまったら、それは仕方がないのか?
 おそらく、今の世の中では、こうして不本意な生を生きている人がたくさんいる。命は大切なのだから、それを「不本意」というのはケシカラン、と本心から何の疑いもなく言える人がどれだけいるだろう?今回死んだ人も、人工呼吸器を装着し、意思表示もままならず、食事(胃ろう=それを食事と言うのかな?)にも排泄にも人の世話が必要、そんな状態だったようだ。それを「屈辱的」と表現するのは、決して変ではない。安楽死が認められているスイスに渡航することも考えたが、死ぬための薬を自力で飲めないことが壁となって、あきらめざるを得なかったという。
 思うに、少なくとも私自身について言えば、医療行為の結果として、自力で生きることができない(他人か機械による補助が必要)、他人と正常なコミュニケーションが取れないほど記憶力・思考力が低下、このいずれかであれば、死なせて欲しいと思うだろう。命は最大限尊重すべきものだが、文明によって生まれた不本意な生は、文明的手段によって断ち切ることを許されてもいいと考える。
 今回の事件で、2人の医師の口座には、「安楽死させてもらう」対価として100万円あまりが振り込まれていたという。このお金が余計だ。交通費と薬代など、実費で死に手を貸してあげればよかったのだ。そうすれば、「安楽死」が認められるべきだという、それなりの思想信条に基づく行為として主張できた(もちろん、裁判でそれが正当と認められるかどうかは別の話)。今回のように発覚し、刑事事件になるリスクを引き受けるための金額として、100万円はあまりにも安すぎる。そんな端金で自分の行為を利益の問題に矮小化する余地を与え、正当性を主張できなくしたのは愚かである。
 安楽死を認めるかどうかは、いずれ社会全体で真面目に考えざるを得ない。それほど、医療は中途半端に進化してしまった。ただ、その問題を切実に感じる人は、たいてい既に社会活動をするだけの時間も体力も残っていない。安楽死を否定し、ただ闇雲に命の尊厳を叫ぶ人は、自分が人の死に関わり、責任を問われることを恐れているだけかも知れない。だから議論になりにくいだけの話である。高邁なきれい事は止めて、あらゆる事例を自分事として考え、哲学的な議論をしなければ、生かされることで苦しむ人も、その周りで苦労する人も増えるばかりである。