志賀直哉の「晦渋」

 「城の崎にて」で、私が最も分かりにくいと感じるのは、のどに串を刺されたネズミが逃げ回っているのを見て、死に至るまでの苦しみ、死ぬまで生きるために必死の活動をしなければならないことへの恐怖について語る段落の最後の部分である。

「またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと『あるがまま』で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響しないものに相違ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それはしかたのないことだ。」

 これを悪文と言わずして、いったい何を悪文と言おうか。それほど分かりにくい一文だ。ネットで探してみると、この部分に頭を抱えているらしい人が相当数いるらしいことは分かるのだが、やはり明快に読み解いている人がいるとは思えない。読み解けない側が悪いのではなく、書いた側が明らかに悪い。
 この段落で、「自分」は、死後の静寂に親しみを感じている。積極的に死にたいとは思わないまでも、死は決して忌避すべきものではない。死は「自分が願っている静かさ」ですらある。「自分」が嫌なのは、死ぬことではなく、その直前に当面する苦しみである。だが、電車に跳ねられた時、「自分」は死に対する恐怖を感じなかった一方で、生きるために「できるだけのことはしようとした」。それは「ねずみの場合とそう変わらないものだった」。まず、この流れを把握しておくことはとても大切だ。この段落のテーマは、死ぬ間際にじたばたすることが不可避であることについて、である。
 さて、上の引用部分の冒頭「それ」は簡単である。「自分が死にそうになること」だ。「自分」は電車に跳ねられて死にそうになったことがあるので、「また=再び」が付いている。
 「あまり変わらない自分」とは、直前に、電車に跳ねられた時の「自分」について、「ねずみの場合とそう変わらないものだった」と書いていることを受けていると考えれば、「ねずみとあまり変わらない自分」であることになる。「あろう」は、意志を表す表現「ありたい」として理解する人が多いようだが、「ねずみと」を補おうとすれば、推量形と考えた方がいい。「あるがまま」というのは、生き物としてあるがままの姿であることを言うのではないだろうか。
 「気分で願うところ」とは、同じ段落の前の方に「自分が願っている静かさ」という表現との関連を考えると、「死」を意味するようにも思われるが、「自分が願っている静かさ」が、ねずみの生き延びようという悪あがきと対比的に語られていることからすると、「じたばたすることなく静かに死ぬこと」と考えた方がいいように思う。
 その次に来る「影響」とは、何に対する影響だろうか。「影響する」という言葉は、間接目的語(~に)がなければ使えない動詞である。仮に「実際に」が間接目的語だとすれば、ここで言う「実際」の具体的内容は何だろう?「実際に」が副詞節であるとすれば、省略されている間接目的語は何だろう?それを考えるためには、更に後の部分を先に考えた方がよさそうだ。
 「両方」とは、「気分で願うところ」=「(じたばたせず)静かに死にたいと思う気持ち」が「影響した場合」と「(影響)しない場合」であろう。これは、願いがかなった場合とかなわない場合と言い換えられる。「影響した場合」に「は」が付き、「しない場合」には「でも」が着いていることからすれば、「影響しない」方が不本意である。だとすれば、「影響する」は「自分の行動」を間接目的語にすると考え、「静かに死にたいと思う気持ちが自分の行動に影響する」=願いがかなった=静かに死を受け入れる、「しない」=願いがかなわない=じたばたする、と考えるのがよさそうだ。
 以上を踏まえて、問題の箇所を意味が分かるように書き直すと、次のようになる。

「今再び死にそうになったら自分はどうするか想像し、なおかつ、その時はねずみとあまり変わらない行動をとるだろうと思うと、それは生き物としての『あるがまま』の姿なのであって、じたばたせずに静かに死を受け入れたいという願いは、そうすぐに実際の行動には影響しない(=結局はじたばたしてしまう)ものに違いない。しかも、静かに死にたいと思う気持ちが自分の行動に影響した時としない時はどちらも本当で、影響して静かに死ねればそれでいいが、影響せずにじたばたしたとしても、それでいいのだ。生き物である以上生きたいという気持ちはあるわけだから、じたばたすることになったとしても仕方のないことだ。」

 これが正しいかどうかは自信がない。ただ、世の中でこの部分について論じられているのを見ると、この段落が、死ぬ間際にじたばたすることについての是非を問題にしていることや、直前の「ねずみとあまり変わらない自分」、他の段落には出て来ない「願う」という表現との関係を考えずに、問題の部分だけを見ながら議論をしているように思われる(木を見て森を見ず)。そのことに対する多少の問題提起にはなるかも知れない。
 自分でも自信がないわけだし、解説すれば混乱するだけなので、授業でこんなことをネチネチと取り上げたりはしない。そんなことをした日には、生徒は「城の崎にて」全体について拒否感を示すようになるのが見え見えだ。この部分が分からなかったとしても、この段落で何が問題になっているかは考えられるわけだから、分からないものは分からないとするしかない。
 それにしても、志賀直哉って本当に優れた小説家なのかなぁ?こんな一節を前にして脂汗を流していると、どうしてもそんな思いが兆してくる。たとえ小説の評価が作品全体にかかっているのであって、部分によるのではない、と言っても、だ。