マスコミの劣化

 東京都江戸川区の中学校教員が、今年2月に人を殺したとして逮捕されたニュースが、連日報道されている。これは、生徒も教員も、現場にいる人たちにとっては衝撃的なニュースだろう。
 私はかつて、「推定無罪」という司法上の原則について書いたことがある(→こちら)。裁判によって確定するまでは、何人も無罪と推測されるというものだ。警察権力の横暴を想定し、人権を守るための重要な原則であると思っている。
 そんな私としては、「殺人事件だ!」というのとは別の意味で、今回の事件は衝撃的だった。なにしろ、10日に逮捕され報道された時は、本人が否定しているだけではなく、なぜこの人を逮捕するかについての警察側の説明もほとんどなかったからである。現場付近の防犯カメラに、それらしき人物が写っていたという以上のことは語られなかった。
 私が問題にしたいのは、警察がさっさと実名報道したということではない。警察は自分たちの手柄を誇ろうとするわけだから、それくらいのことはやりかねない。いたたまれないのは、マスコミが同じ態度を取ることだ。
 私だって、例えば安倍元首相銃撃や、岸田首相に爆弾を投げつけたといった明らかな現行犯逮捕の時には、実名報道にさほど目くじらを立てたりしない。実際に起こった事件で、周りにたくさん人がいたとなれば、事件に関係のない人を逮捕してでっちあげるなど、いくら警察でもできないだろう。しかし、今回のことは違う。しかも、最初の報道の時から、すっかり犯人扱いである。校長だって、衝撃を口にするのはいいが、「まだ事実かどうか分からないことなので、本人の言うことを信じて捜査の行方を見守りたい」くらい言えよ、と思う。
 その後も、捜査の進展に従って、マスコミは警察の発表を垂れ流す。まるで警察内の報道担当のようだ。権力の監視者だるべきマスコミの劣化は深刻だ。
 とりあえず本人も気の毒だが、妻子は更に気の毒だ。世間の目におびえながら、ひっそりと身を縮めて暮らしているに違いない。仮に殺人が本当だったとして、マスコミが今のような騒ぎ方をしなければ、裁判の結果が出るまでの間に、どこかに身を隠すこともできただろうに。彼らには罪がない。想像しては、心を寒々としたものが吹き抜ける。権力をまったく脳天気に信頼し、個々人の人権をものとも思わない日本社会を憂う。