「推定無罪の原則」はどこへ?



 昨日の新聞(私が気付いたのは『河北新報』)に、仙台市内の某公立中学校長(58歳)が女性の下半身を触って逮捕された、という記事が結構大きく載った。本人は容疑を否認している、という。続いて今日は、仙台地方検察庁が、理由を明らかにしないまま、その校長を釈放したという記事が出た。同時に、仙台市教育委員会が臨時の校長会を開き、綱紀の粛正を指示したとの記事も付け足されている。

 どの記事でも、逮捕された校長は実名が明らかにされている。私は今更ながらに、日本の人権感覚の希薄さに驚き、我が身にもいつ何時何が起こるか分からないと、背筋に寒気が走ったのだった。

 本当は今更いうまでもなく、世の中には「推定無罪の原則」というものがある(あったはずだ)。裁判で有罪が確定するまでは、誰でも「無罪」であるとの推定が働く、というルールだ。冤罪を避け、不要な人権侵害を犯さないためには大切なルールである。このルールがなければ、事実無根であったとしても、何かしらの事情で検察が「あいつが悪い!」と言い出した場合、あっという間に犯人に仕立て上げられ、世間がそのような目で見始め、大きな社会的ダメージを被ることになる。「火のないところに煙は立たない」などと暢気なことを言ってはいけない。「何かしらの事情」とは、検察官と恋敵であったとか、何となく虫が好かない、といったことも含み得るのである。

 某校長は酒を呑んでいたらしい。破廉恥行為は、酒を理由に正当化することはできない。だが、本人が否定しているところで、早々に実名公表を含めて、いかにも犯罪者であるとの扱いをするのは乱暴だ。本当に某校長が犯人なのかは丁寧に検証される必要があるし、その過程において、容疑者の人権に対する配慮は最大限為されるべきだ。実名を公表したのは警察だろうが、それを記事にして載せた新聞社の側にも大きな非がある。メディアは、警察が実名を公表したことを批判する立場に立たなければならない。私などは、戦前の新聞社の復活を見る思いがする。

 事件の詳細が分からないので何とも言えないが、仮に二人しかいなかった場所で行為が行われた場合、触ったと主張する女性と、触っていないと主張する某校長の水掛け論になってしまい、事実を立証できなくなる可能性が高い。この場合は、どうすべきだろうか。それは当然のこと、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を適用しなければならない。つまり、某校長は無罪となる。女性にしてみれば、触られたことは不愉快だし、もしかすると精神的に傷ついたかも知れない。だが、その女性に我慢をしてもらって原則を貫かなければ、人権は守られない。人権侵害の行き着く先は権力の濫用であって、それは「下半身を触られた」とは比較にならないほど大きなダメージを、社会全体にもたらすことになる。

 日本のような村社会においては、警察によって罪人扱いされたという実績は、ただそれだけで測り知れないほどのダメージをもたらす。某校長だって、仮に不起訴となったとしても、職場復帰できるかどうかが怪しいところだ。もしかしたら自分もそのような立場に立たされるかも知れない、という心配は、誰もしていないに違いない。だからこそ、今回の報道に無関心、場合によっては、「やっぱり今の教育現場は腐っている。教育委員会にもっとしっかり監督してもらわなければ」などという声さえ出かねない。やはり、本当に大事なものは、警察・検察やメディアの姿勢ではなく、国民の意識だ、ということになるのだろう。