「心肺停止」と「容疑者」



 御嶽山が噴火した。2日経って、今日の各新聞1面には「4人死亡、心肺停止27人」という大きな文字が踊っていた。

 「心肺停止」というのは、文字通り「心臓も呼吸も止まっている」という意味であろうが、どうも比較的最近になってからよく目にするようになった表現のように思う。一般的な感覚からすれば、「心臓も呼吸も止まっている」のであれば、「脳死」という心臓も動いている「死」さえ認められている時代に、何の問題もなく「死」ではないか、と思う。それをなぜ「心肺停止」と表現するかと言えば、医師が死亡の判定を下していないからだ、というのは容易に想像が付く。

 だが、なんだか非常に回りくどい、もったいぶった厳密な言葉の使い方だな、と、あまり素直に受け入れられない。ある日、路上でばったり倒れて数分の間、というなら、まだ蘇生の可能性があるから「死」と言うのははばかられるが、なにしろ火山灰に覆われた3000メートル峰の頂上付近である。「正確な言葉遣い」にも限度があろう。

 私の頭に浮かぶのは、これまた近年非常に多い「イメージです」という注意書きだ。宣伝チラシの写真の隅に、非常に高い確率で印刷されている。温泉の露天風呂に若くて美しい女性が入っている写真を見て、実際に行ってみたら、混浴の風呂にもそんな女性はいなかった、「話が違う!」といって怒り出す人がいるのだろうか?これらは「常識」の衰退なのか、過剰な予防なのか・・・私はよく分からないが、なんだか疲れる。

 9月25日に、「おせっかい」という方から、今年4月12日に関するコメントをいただいた。「輩出」という言葉の使い方に関する話で、当日の藤原新也のブログにおける「輩出」の用例を紹介して下さったものだった。私は、全てのコメントに返信するわけではないのだが、その用例を含む藤原の文章の中に、気になる表現があったので、返信の形でそれについての意見を公にしておこうと思い、返信した。

 それは、最近神戸で起こった小学生殺害事件に関するもので、藤原は、逮捕されたKという人物について「犯人」という表現を使っていたのだ。私は、以前から、日本において「推定無罪」という原則がまったく蔑ろにされていることについて、強い危機感を持っている(例えば→こちら)。逮捕された瞬間に、その人物は「犯人」とされ、名前も顔も公にされてしまう。そこには警察という公権力に対する疑いも、「人権」についての配慮もなにもない。そして、ひとたび「犯人」とされてしまうと、そのような世間的評価はなかなか消えず、大きな社会的ダメージを受ける。まして、今回の「犯人」については、殺人を証明する直接の物的証拠も見つかっておらず、本人は黙秘しているのである。どう考えても、これは「容疑者」であって「犯人」ではない。検察が裁判の場で有罪を立証できた時だけ、「容疑者」は「犯人」に変わる。そうしなければ人権は守られない。いたいけな女の子を、あんなにむごい殺し方をしておいて「人権」も何もあるか、と怒る人もいるだろう。だが、それはKの人権を守ることではない。私も「あなた」も、いつ警察の標的にされるか、冤罪に巻き込まれるか、分からないのである。Kを「容疑者」とし、「犯人」となるまで名前も顔も伏せることによって守るべき「人権」は、世の中の人々全員の「人権」なのだ。

 「容疑者」と「犯人」は、厳密に使い分けられなければならない。一方、御嶽山の「死亡」と「心肺停止」の使い分けはあまり意味がなく、うるさい。さすがに、「犯人」と「容疑者」も、一般紙ではしっかりと使い分けられているが、だったら名前など出す必要もない。問題を藤原新也一個人に帰してしまって済むようには思えない。

 では、それらの場合分けはどのようにすべきだろうか?もちろん、使い分けをすることによって得るもの、失うものを考え、その性質によってひとつひとつ判断するしかないのだが、判断の根拠となるのは「感覚」であってはならない。いったい何が大切(本質的)で、何が大切でないのか、という「哲学」だ。