余計なお世話を増やさせるな…御嶽山訴訟

 一昨日の新聞各紙で、2014年の御嶽山噴火で死んだ人の遺族が、国と長野県を相手に訴訟を起こしたことを知った。ああ、またか、と思う。やり場のない怒りはどこかにぶつけなければ気がすまない、相手は「公」がふさわしい、という最近お決まりのパターンだ。しかし、いくらなんでも、国や県に落ち度らしきものがなければ、さすがに訴訟は起こせない。
 記事(どの新聞でも同じ)によれば、気象庁は事故の2週間あまり前に、1日50回を超える火山性地震を観測しており、噴火警戒レベル2(火口周辺規制)への引き上げをすべきだったのにしなかった、長野県は山頂付近の2基の地震計の故障を放置していた、というのが訴え(過失)の根拠らしい。さて、これらは責めるべき落ち度に当たるのだろうか?
 当時、レベル1からレベル2への引き上げは、火山性地震50回を一応の目安としつつ、総合的に判断することになっていたらしい。だから、「総合的判断」の根拠として、何か説明できる要素があった方がいいのは確かであるにせよ、なかったとしても「違法」とまでは言えない。などと書くと、いかにも政府のお先棒を担いでいる裁判所の判決文みたいな物言いだが、仕方がない。
 私たちの生活が安全かどうかの判断を、全て行政に任せるわけにはいかない。気象業務法に定められた警報についても、私は産業と生活がせいぜいの守備範囲であって、趣味の登山まで対象になっているとはとても読めない。なまじ、気象庁が警戒レベルなどを無限定に出すものだから、趣味の登山までそれで守られて当然だという誤解を生むのである。
 釣りをしていても、登山をしていても、湖でボートを漕いでいても、国が現時点では安全ですよ、いや、危険とは言えませんよ、などと保証してくれなくてはできないというのでは、逆に、国が警報を出した時には、まだ大丈夫だろうと思っても、禁止に従わざるを得なくなる。そして何より、予防はとかく過剰になりがちだ。
 例えば、最近のJRの弱気は、誰もが感じていないだろうか?信じられないほど軽微な雨、風、津波注意報ですぐ運休にする。当然とも言える。「もしも何かあったら」、とてつもない非難と訴訟のリスクにさらされているからである。幸い、穏やかな日本人は、危険回避のための運休は、いくらそれが弱気に過ぎたとしても、あまり文句を言わない。少なくとも、文句はその場限りであって、事故が起きた時の非難に比べれば、はるかに面倒は少ない。
 趣味で山登りをするのに、公の許可があるとかないとか気にしたくはない。目的地が火山であるかどうか、活火山なのか休火山なのか死火山なのかくらいは知っているわけだから、あとは不安があれば行かなければいいのである。
 とは言え、臓器移植や携帯電話と同じで、いいか悪いかを考える余地なく、人間は手に入れた技術は使わないと気が済まない。精度の高い地震計が設置され、無感地震の有無や、その性質(火山性かどうか)まで分かるようになってしまうと、そのデータをないものと考えるわけにもいかない。だとすれば、警報や禁止といったものは産業と生活に限定して有効とし、あとは生データと危険性のガイドラインを公開しておいて、各自の判断に任せるというのが妥当なところだろう。生活はさておき、産業については、生産停止や配送遅滞を納得してもらうために、公のお墨付きが必要になることもあるだろうから、場合によってはやむを得ない。あるいは、産業とか生活というのではなく、人が既に古くから生活している地域を指定して、その指定地域以外は警報・注意報の範囲外、新たに居住地として選択するかどうかも含めて自己責任、というやり方もある。
 いずれにしても、国や県が山に登れと命じたわけでない以上、活火山に遊びに行っていて噴火に遭遇し、公の責任を追及するというのはナシである。