規則の守り方、守らせ方

 ふと思い出した。冬休み中、警察に捕まったのである。
 家族で車に乗っていて、高速道路の料金所、ETCのゲートを通過した瞬間、立っていた警察官が素早く反応し、車をすぐそばの駐車スペースに入れろと誘導する。何の心当たりもなかったので、何事か?うざいなぁ、と思いながら、指示を無視するわけにもいかず(権力は非常に怖いのである)、車を止めた。近寄ってきた警官は、私が窓を開けると「あっ、平居先生!!お久しぶりです。」とにこやかに言う。見れば、かつて勤務していた高校の某部活で面倒を見たTではないか。卒業後15年以上、一度として会ったことはなく、年賀状やメールをもらったこともない。
 とは言え、警官が「恩師」を見つけて、挨拶をしようと車を強制的に止めさせるなどということがあるわけがない。そもそも、私に止まれの指示をした警官と、止めた車に近寄ってきた警官は別だ。Tは「後部座席のシートベルト着用義務違反で1点減点になります。」と涼しい顔で言う。くそっ。一昔前なら、「先生、注意して下さいよ」くらいで無罪放免ということもあったかも知れないが、なにしろ世知がらい世の中である。捕まえた相手が「恩師」であるが故に、規則通りの手続きを取らなかったことが世間に知られた日には、どれくらい激しいバッシングが警察を襲うか分からない。Tとしても切符は切らないわけにはいかなかっただろう。
 だが、やはり不満は残る。不満の理由は、そもそも、どうしてこんな規則があるのか、軽微な処分とは言え、そんなことする必要などあるのか?という根源的な疑問によっている。
 例えば、携帯電話でメールを打ちながらの運転、信号無視、スピード違反といったものは、他人を危険に巻き込む恐れがある。だから、取り締まることも必要だろう。だが、シートベルト着用義務違反は、違反をしている本人にとって危険が増すだけで、誰に迷惑をかけるわけでもない。こういう規則は取り締まる必要が無い。不幸にして事故を起こした場合、シートベルトを着用していなかった人には、保険金を割り引いて払うといったペナルティの課し方が妥当だ。もらい事故でも、慰謝料、賠償金の割引はあってよい。死んでも「致傷」にするといった法的責任の割引もアリだ。今回のような予防的・強権的な手法は、まったく余計なお世話なのである。
 さらに思い出した。昨秋のある日、私は自転車で市内に出かけ、ある信号機付き交差点にさしかかった。この日、東西に走る道路はイベントが行われていて、自動車通行止めになっていた。私は南北を走る道路で、南から北に向かって交差点を通り抜けようとしていた。
 交差点に付いている信号は、最近、よく見る「歩車分離式」というタイプである。東西の道路が自動車通行止めになっていても、信号機はいつもと同じように動いていた。東西の自動車用信号が青で、それ以外は赤であった。東西には車が走っていないのだから、東西の歩行者は、歩行者用信号が赤でも自由に渡ってよいであろう。ところが、そこにいた60代半ばと思しき交通指導員は、(おそらくは)歩行者用信号機が赤だという理由で歩行者を止めていた。これだけで「常識」感覚を疑いたくなるところだ。私は、誰も交差点を東西に渡っていないのだから、信号が赤の南北を自転車で通り抜けてもかまうものか、と思って、そのまま通過しようとした。そうしたところ、交通指導員に「信号赤ですよ!!」とかなりきつく叱責され、棒で制止されたのである。「ふざけるな!」と怒鳴りつけたくなったが、私は、そこでトラブルを起こしても何の得もないので、やむを得ず指示に従って自転車を止めた。私が腹を立てる理由を、その交通指導員に、分かるまでとことん説明するのが正しいことだとは思ったが、もちろん、状況としてそんなことは出来ない。目の前の交差点では、南北の自動車と東西・南北の通行人、要するに全員が、誰も通っていない交差点を見つめながらじっと歩行者用信号が青になるのを待っていた。日本人って従順だなぁ。
 恐ろしいことだと思う。確かに、規則は規則だという立場から言えば、信号を守らせようとした指導員は間違ったことをしていない。だが、やはり間違っているのである。規則は守るためにあるわけではない。そもそも、これくらい完璧に融通の利かない人を交通指導員として配置するのであれば、東西には自動車が走らないという前提で、臨時的に信号をプログラムしておく必要があるのだ。
 サッカーやバスケットボールの審判は偉いと思う。彼らは、全てのファウルに笛を吹いたりしない。そんなことをしたら、試合の流れが失われる上、ファウルをされた側もプレーをしにくいという状況が生じてしまう。だから、ファウルをされた側が不利にならないように、という原則をしっかりと守った上で、アドバンテージを取った上でプレーを続行させたり、見逃したりするのである。世の中で規則を運用し、管理している人間は、そのやり方をこそ学ばなければならない。もう一度書くが、規則は世の中を円滑にするためにあるのであって、守ることが目的ではなく、守りさえずれば暮らしやすい世の中が生まれるというわけでもなく、むしろ守れば暮らしにくくなるのである。