高盛り土道路が象徴するもの

 今日は、朝から学校に行き、来週から始まる定期考査の問題を作ったりなどした後、仙台市郊外に一人で住む母の生活支援に行った。最近、老化による衰えがひどいので、一人暮らしにひやひやしつつ、できるだけ毎週行くようにしている。先ほど「生活支援」と書いたが、「介護」の一歩手前だ。買い物に連れて行ったりする都合もあって、これは絶対に車で行かなければならない。私が、「地球の敵」と言いつつ、車を手放せない唯一の理由である。
 時間さえあれば、お金をケチって有料道路は使わない。塩釜からは、仙台港の脇を通り、東日本大震災後高盛り化された沿岸道路(県道10号線)を閖上へと走る。
 道路そのものは甚だ快適なのだが、いつも「ケシカランなぁ」と怒りがこみ上げてくる。この道路を作るために、燃料消費も含めて、どれだけの自然を壊したか、ということだけではない。道路を作った人の頭の中に「歩行者」という概念がないことに対する怒りである。車さえよければ、他はどうでもいいのだな。
 高盛り土道路が町を分断することの問題に、私は当初から気付いていて、おそらくこのブログでも探せばそんな記事が出てくるだろう。車で横切るにも、傾斜のついたアプローチが必要で、しかも道路に面して商業施設は作れない。更に問題なのは、歩行者がこの道路を横切るためには、アプローチのあるところまで行く必要があるのだが、それは場所によっては㎞単位の迂回を強いられることになる。
 本当は100m毎くらいに歩行者用の細いトンネルを作っておくことが望ましい。防潮堤を兼ねているということから、それが出来ないというのであれば、せめて階段と横断歩道を作って欲しかった。
 仙台の沿岸道路は、周りに住人が居らず、歩行者なんて元々めったに見ることのない場所を通っているから、極めて単純に「そんなものいらないんじゃないの?」という発想になったことが想像できる(だからいい、あるいは仕方がないとは決して思わない)。しかし、このことは、人の往来がそれなりにある石巻市内の高盛り土道路(魚市場のあたり)でもほとんど同様なのだから、そもそも道路設計者にとって、「歩行者」などというのはオマケ、1㎞余計に歩くことになろうが、2㎞余計に歩くことになろうが、「渡れるだけでありがたく思え」ということなのだろう。
 弱者、あるいは人間の原点を大切に出来るかどうかは、間違いなく世の中の優しさ、更に言えば質を表す。人にしても物にしても、速く大量に動かせることだけが価値の全て。高盛り土道路はそのことを象徴する。なに、そのうち人間社会全体に大きなしっぺ返しが来るさ。