「耳を澄ませば」にツィンク!

 最近、金曜ロードショウで、ジブリの作品を連続して取り上げていた。柄にもなく、私はジブリ作品が大好きである。私にとってのベスト3は、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「耳を澄ませば」である。「トトロ」は我が家にDVDがあるが、小学生の子供が、「ナウシカ」や「耳を澄ませば」を見たことがないというので、録画しておいて、週末に一緒に見ていた。
 どうしても、たかがアニメとバカにはできない。傲慢で目先の利益ばかりを考える人間によって汚された世界を、一見、最も汚れた世界に見える腐海が浄化するという思想、命に対する繊細で深い愛情とその交流(以上「ナウシカ」)、純情な恋の芽生え、何かに対するひたむきな憧れの美しさ(以上「耳を澄ませば」)といったものが、今更ながらに胸に迫って泣ける。
 映像の美しさにも圧倒される。実は、「ナウシカ」は、学生時代、見に行って興奮した友人の話を聞いて、封切り直後に映画館で見た。それ以前のアニメ作品とはまったく次元の違う、微妙な色使いと画面の奥行きに息を呑んだ。今、我が家の小さな小さなテレビで見ても、その興奮をまざまざと思い出す。
 ところで、今回、それらの感動とは別に、あれっ、こんな場面あったっけか!?と意表を突かれたのは、「耳を澄ませば」に出てくる合奏シーンだ。同級生、天沢聖司の家を訪ねて、天沢がヴァイオリン作りをしていることを知った月島雫が、ヴァイオリンを演奏してくれるように頼み、天沢のヴァイオリンに合わせて歌を唱うと、帰ってきた天沢の祖父と仲間、合計4人(歌を入れると5人)による合奏が始まる、という場面だ。
 私は音楽史が大好きである。歴史として最も面白いと思う。それは作曲家と演奏者と楽器製作者がお互いにより豊かな表現を目指して、それぞれの分野を改良しながら、世界を変化させていくからである。作曲家は楽器の能力と演奏者の技術をフルに生かして曲を書こうとし、演奏者は楽器から新しい可能性を引き出そうとする。作曲家も演奏者も知恵を出し尽くした頃に、楽器製作者は新しい音や技巧を可能にする楽器改良を提案する。楽器の多くは、スポーツや他の芸術分野の道具とは比較にならない繊細で複雑な機械である。同時に、木や動物の角・皮といった自然の素材を尊重して使っている。これらの条件によって、道具類の中でもひときわユニークな進化(変化)の歴史をたどった。(→参考記事1(オーボエ)参考記事2(トランペット)
 さて、私が「耳を澄ませば」の合奏シーンに驚いたのは、リュートヴィオラ・ダ・ガンバという、いわゆる「古楽器(だいたい19世紀半ば以前、典型は17世紀前後・バロック期の楽器)」が使われていたからである。リュートは、構造としてはギターと同じとは言え、胴の形はまったく違う。ヴィオラ・ダ・ガンバは、知らない人が見ればチェロと見分けが付かないが、映画の中では、フレットが目に止まってそれと分かった。そして次にびっくり仰天は、最初タンバリンを叩いていた男が、ツィンクという楽器に持ち替えたことである。この楽器を知っている人はよほどのマニアだ。私も古楽演奏史の本や音楽事典の中で見たことがあるだけで、実際の音は聞いたことがない。この男は、その後すぐにツィンクを手放し、ブロックフレーテ(リコーダー)を吹き始めるのだが、どうもこの場面を書いた人は、相当な「通」であることが分かる。
 あまりにも一瞬の場面だったので、いろいろと気になることがあって、子供と最後まで見た後で、問題の合奏シーンだけをじっくりと見てみた。すると、本来は6本であるべきヴィオラ・ダ・ガンバの弦が7本あるとか、古楽のアンサンブルと一緒に天沢君が弾いているヴァイオリンの弓は現代楽器の弓(先端の形状が違う)だ、といった問題を見付けることが出来た。ツィンクを知っているほどの人が、このレベルの間違いや不統一を犯すのは理解しがたい。モダンの弓は、アンサンブルが即興であることを表すなどの意図があるようにも思う。
 2時間近い映画の中の1分にもなるかならないかの短いシーンである。それでも、自分の中に問題意識があると、それなりに見えてくるものがあって面白い。ヨーロッパの美術館で絵など見ていても、中にどんな楽器が描かれているかという視点があると、ぼんやりと見ているよりは面白い。もっともそれが映画や絵画の鑑賞なのか?と問われれば、決してそうではなく、あくまでも歴史史料をひもとく時のトキめきなのだけど・・・。
 大丈夫、ガンバの弦が7本でも、弓がモダンでも、「耳を澄ませば」の感動は何の影響も受けない。いいなぁ、あの純情。