腐海で銃を撃つ

 アメリカがめちゃくちゃである。年賀状に書いた人間の「内部崩壊」が、ついに本丸に到達したかの感がある。星の一生などを見ると典型的なのだが、自然界の変化は、最初のうちは変化していることさえ気が付かないほどゆっくりと進み、やがて指数関数的な加速をしてクラッシュする。人間も自然の一部だ。産業革命後の250年、太平洋戦争終結後の70年の変化の激しさは驚くべきものだが、もしかすると、今後10年の変化はそれを上回る。私の人生のうちには、かろうじて人類の滅亡を目にすることはないだろうと思っていたが、どうやら、そうでもない感じがしてきた。
 昨日の毎日新聞にあった専門編集委員・布施広氏による記事「エルサレムを泣く」は、そんな私の危機感を更にあおり立てた。
 アメリカの政治・経済界に、ユダヤ人がいかに大きな力を持っているかは知っていたつもりだったが、そのユダヤ人、いや、イスラエルをどのように扱うかについて、民主党共和党はかなりきわどい駆け引きを続けてきたらしい。
 ユダヤアメリカ人には民主党支持者が多く、民主党献金の約半分が、ユダヤ人によっているとさえ言われる。それを切り崩すべく、共和党ユダヤ人の人気取りに考え出したのが、現在テルアビブにあるアメリカ大使館のエルサレム移転なのだ、と言う。過去の共和党の綱領や議会での決議を、トランプ政権下でいよいよ実行に移そう、という姿勢を見せているらしい。
 エルサレムは、国連の決議によって国際管理下にあることになっている。私もかつて(1984年)訪ねたことがあるが(→参考記事=この翌日もセット)、わずか数百メートル四方の城壁に囲まれた旧市街に、イスラム教(岩のドーム=ムハマッド昇天の場所)とユダヤ教嘆きの壁=神殿の跡)とキリスト教ゴルゴダの丘=イエス処刑の場所)の聖地がある。相当にアラブ人を排除してしまったイスラエルの中でも、アラブ人比率は比較的高い(高かった=今は不知)。宗教の中枢であるだけに、人々の感情はデリケートだ。もちろん、「国際管理下」はおそらく有名無実化していて、実際にはイスラエルが治めているのだろうけど、だからといってタテマエが無意味なわけではない。タテマエがタテマエに過ぎないことを公言し、ホンネによってタテマエを葬り去ろうとすれば、人々が装っているタテマエの穏やかな表情もまた崩れ、それに伴ってホンネが暴走を始めかねない。布施氏はアメリカが「エルサレムイスラエルの首都と見なせば、猛然たる抗議行動が巻き起こるのは必死である。考えるだに恐ろしい」と書く。
 私の頭の中に、先日見たばかりの「風の谷のナウシカ」の一場面が思い浮かんできた。トルメキアによって人質となって移送される途中のナウシカたちが、ペジテの攻撃によって遭難する。ナウシカは危機一髪で飛行機から脱出するのだが、その時、トルメキアの女王を助けてしまう。腐海の底に不時着すると、王女は命の恩人であるはずのナウシカに銃を向ける。この時、ナウシカは「撃つな」と言うのだが、その理由は、自分が死にたくないというのではない。たった一発の銃声で、腐海では何が起きるか分からない、おそらくは多くの虫たちが暴れ出して収拾が付かなくなるだろう、というものであった。
 エルサレムに大使館を移すことは、腐海の中で銃の引き金を引くことになる。もちろん、周りの中東諸国やイスラム教徒は、軍事力でアメリカに太刀打ちできないことをよく知っているから、アメリカとの戦争が始まるとも、それを後ろ盾とするイスラエルへの攻撃ができるとも思わない。だが、それによって増幅されたストレスは、因果関係不明のまま、世界のあちこちで際限のない悲劇を生み出すことになる。テロだけではない。ISだって、そんなストレスの発現の一形態だと私は思っている。もしかするとシリアでさえも・・・。
 人間の内部崩壊が自然の摂理だとすれば、もはや何も力は持たないのだけれど、生きている限りはそれに逆らう責任というものがある。イスラエルでタテマエを壊すことは、あまりにも愚かである。