今日の『朝日新聞』土曜版「be(赤)」で、映画「砂の器」(1974年)が取り上げられているのを見た。私はこの映画を見たことはないが、「砂の器」という題名を見て、少々思い出す所あったので、書いておこうと思う。
2004年に、テレビドラマ「砂の器」を見た。千住明の音楽(ピアノ協奏曲「宿命」)が有名になったから、それで覚えている人もいるだろう。私はテレビドラマを見ることなどほとんどないのだが、小さな家の中で家族が見ていたので、なかばそれに付き合わされる形で見ていたのである。ある殺人犯の息子が、自分の過去を知る人物を殺害し、やがて警察に捕まる、という話である。暗いが上にも暗い話で、じわじわと警察に追い詰められていく心理が、たいへん嫌らしい恐ろしさを感じさせるので、最後の方では、もう番組を見るのは止めてくれ、と家族に懇願していたのを覚えている。
その後、松本清張による原作を文庫本で読んだ。映画にせよドラマにせよ、原作との比較で映像の方を面白いなどと思うことは稀なので、いかに不愉快だったとは言え、原作との違いだけは確かめておかなければ、と思ったのである。
原作を読んで、私は拍子抜けしてしまった。あの嫌らしい恐怖感は微塵もなく、推理小説らしいワクワク感だけを味わいながら読むことができたのである。
理由は極めて明白だ。主人公たる和田某の父親が、人目を避け、息子を連れて漂泊するようになった理由など、原作とドラマにはストーリー上の大きな違いがあるのは確かだが、何と言っても大きいのは主語の違いである。つまり、原作では、刑事の側が犯人を追い詰めていくのに対して、ドラマは犯人が追い詰められていくのである。主語が変わると、これほどまでに作品というのは変わるものなのか、という思いが強烈だった。
昔、中学時代だったか、英語の授業で、受動態と能動態の変換というのを勉強した。今でも行われていることであろう。「私は彼を殴った」→「彼は私に殴られた」。確かに、主語を入れ替えても、伝えている客観的事実は何も変わらない。だが、一つの行為をしている側とされている側の心理には大きな隔たりがある。動詞が人間の行為である場合、それは絶対に変換できるものではないのだ。そんなことを、英語の授業で注意された記憶はない。あまりにも自明に過ぎるからか、学習の目的からは外れるからだろう。だが、心理を切り離して行為は存在せず、文というものがそれらを表現するものである以上、主語の違いによる心理の変化は非常に重要なことに思える。
そのことを気づかせてくれたのは、「砂の器」であった。