ラーゲリより愛を込めて

 『ラーゲリより愛を込めて』という映画(監督:瀬々敬久、原作:辺見じゅん)が評判らしい。昨日、酒を飲みに塩釜を往復する電車の中で、私は本を読んだ。原作ではない。映画の脚本から小説に起こされたものである。原作は『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』で、私が読んだのは『ラーゲリより愛を込めて』だ。日頃、小説などというものに縁のなさそうな顔をしている愚息が、妻が買ってきたその本を読んで、「最後本当にやばいよ」という言葉を繰り返すものだから、愚息=バカ息子がそれほどのことを言うのだからよほどすごいのだろう、とも、息子の評価など当てになるものか、とも思いながら、読まないことには文句も言えないからと手に取ったのである。

(以下、ネタバレを含むので、今から見る・読むという人は、読まない方がいいかも。ネタバレしないように書こうかと思ったが、それほど内容に触れずに感想を書くことはできなかった。)

 最後まで、けっこう夢中になって読んだ。日中戦争終了後、シベリアのラーゲリ(捕虜収容所)に抑留された主人公が、苦節10年、幾多の艱難を乗り越えて最後は帰国するというハッピーエンド小説かと思っていたら、主人公はガンのためラーゲリ暮らし9年目に死んでしまう。
 私は、愚息が言うほど最後の場面ばかりが特別にいいとは思わなかった。全編にわたり、各所に見どころがある。しかし、本当に主人公の生き方が本領を発揮するのは確かにその死後だ。あらゆる自由が制限され、特に文字の読み書きは完全に禁止されている中で、仲間が死期の迫った主人公に遺書を書かせる。発見→没収を恐れた仲間4人が、4つの部分からなる遺書を分担して丸暗記し、帰国の船の中で文字に起こした。彼らはそれぞれに遺族を訪ね、自分が書き起こした遺書を届けた場面で、初めて遺書の内容は明らかになる。だが、大切なのは遺書の内容ではなく、極限的な生活環境の中で、そこまでして遺書を届けようとした仲間の気持ちであり、仲間をそんな思いにさせた主人公の人柄と生き方である。
 主人公は、何と言っても常に「希望」を持っていた。どんなに厳しい状況にあってもだ。それから、自分自身の尊厳をとても大切にしていた。自分だけではない。人を愛し、言葉と学問とを愛し、常に前向きに考えていた。そんな人柄と生き方とが、徐々に、徐々に、周りの人達を動かす力になっていったのである。
 私がこの本を読みながら思い出したのは、内村鑑三の講話記録『後世への最大遺物』である(→この本についての過去の記事)。内村は短い講話の中で、私たちは後世に何を残すことができるかをあれこれ考え、結論として、特別な才能がなくても残すことができる最も価値あるものは、「勇ましい高尚なる生涯である」とする。そして更に、「勇ましい高尚なる生涯」とは何かと問いを立て、次のように述べている。

「世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であるあることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」(岩波文庫より)

 「神」という言葉こそ『ラーゲリ~』には出て来ないが、『ラーゲリ~』を見たか読んだかした人の全てが、この内村の言葉を主人公の生き方そのものだと感じるに違いない。同時に、主人公が多くの人を変えたことから、内村の主張の正しさにも感じ至るに違いない。
 原作はノンフィクション(実話)だそうである。だが、主人公が帰国を待たずに死んでしまったのは、状況設定として上手くできている。それでこそ、「勇ましい高尚なる生涯」が人を動かし変えることが、より一層明確に描かれ得るからである。主人公は、死んだ後も生き続けたのだ。主人公は病床にあって、秘密裏に「未来のために」という長い文章を書いていた。死後、それはソ連兵に発見され、没収・処分されてしまった。痛恨の事態である。だが、生涯そのものが残された以上、「未来のために」が残らなかったことは、さほど大きな問題ではない。むしろ、残らなかった「未来のために」は、残った「生涯」の価値の大きさを引き立てているようにも見える。脇役である犬も、わざとらしい動きを見せる割に、不思議と違和感なく心を動かす。確かに、いい作品だった。