近所の空き地が語ること



 我が家から歩いて3〜4分の所に、かつて1人の代議士の家があった。社会党所属で、1996年の第一次橋本内閣では郵政大臣となった。政治家らしいギラギラしたところもなく、穏やかで、悪い人ではなかったように思うが、村山富市氏と共に、結果として社会党をぼろぼろにした戦犯の1人だろうと私は見ている。10年ほど前に亡くなった。道で何度かすれ違ったことはあるが、挨拶以上の言葉を交わしたことはない。

 先日、ちょと散歩に出かけた時に、その家が解体され、更地になっていることに気付いた。少し奥まったところに家があったので、解体の過程で気付かなかった訳だ。なにしろ「日和山」である。震災と関係があるはずはない。そう古ぼけた家にも見えなかったが、家族と面識があった訳でもないので、その事情は分からない。

 住宅地のなかのぽかんとした空き地を見ながら、なんだか寂しい光景だな、と思った。弁護士で代議士で、大臣まで務めたとなれば、「位人臣を極める」に近い相当な有力者の1人であったはずだ。しかし、その死後に、何かの機会にこの方の名前が出るのを、国政レベルでも、町内会レベルでも聴いたことがない。そして、このぽっかりとした空き地である。

 その昔、高校時代だっただろうか?内村鑑三の『後世への最大遺物』(岩波文庫)という本を読んだ。誰か大人の薦めだったと思う。私たちが後世の人のために何を残すべきかということの考察なのだが、内村は、金、事業、思想といったものを考えたあげく、特別な才能が無くても後世のために残すことが出来る最良のものは「勇ましい高尚なる生涯」であるとする。「勇ましい高尚なる」とは、軍人や学者の人生ではない。誠実ひたむきな人生であれば、誰の生涯でも「勇ましい高尚なる生涯」になると考えられているようだ。なんだかひどく他愛もない本だと思いがっかりした。

 ところが、この本は、その後、人生のいろいろな場面で思い出され、そこで語られていたことが、あまりにも真実であることに気付き、大きな感銘を受けるようになったのである。確かにそうなのだ。誠実ひたむきに生きるという他愛もないことこそが、人に感銘を与え、優れた世の中を作る元になる。若い時期の思い上がりのようなものがだんだんと剥がれ、自分の能力の低さに気がつくにつれて、その意味の深刻さがどうしようもなく身に染みてきた。同時に、内村が語るような一見他愛もない生き方もまた、至難であることに気付いてくるのだけれど・・・。

 近所に住んでいた代議士の人格がどのようなものだったのか、私は知らない。しかし、彼が残したものがあったとすれば、それは弁護士や代議士や大臣といった地位や職業に基づくものではなく、他の誰とも変わらないような一人の人間としての生き方に基づくものなのだろう、と思う。地位も職業も財産も、死んでしまった後には何の価値も持たない。家が壊された後の空き地は、そんなことを実に雄弁に語っているように感じられる。