津波とセイタカアワダチソウ



 かれこれ2週間ほど前のことになる。我が家のさほど広くない庭に、セイタカアワダチソウが4本ほど花を付けているのに気づいた。黄色い花とは言っても、およそ菜の花や山吹とは違って、「可憐」とか「清楚」とか「奥ゆかしい」といった形容とはほど遠い、軽薄で毒々しく、嫌らしい色の花だ。その旺盛な繁殖力と相まって、なんともおぞましい。ぞっとして、すぐに抜き捨てた。それ以来、セイタカアワダチソウの存在がひどく気になる。一度気になり出すと、世の中はセイタカアワダチソウだらけ、と言ってよいほど、セイタカアワダチソウばかりがたくさん生えているように思われてくる。

 先日、近くに住む友人にそんな話をしたところ、その友人も、震災後、確かにセイタカアワダチソウは増えているのではないか、と言った。仮に増えたとしたら、それはなぜなのだろう?共に想像したのは、次のようなことである。

 津波によって多くの植物が根こそぎ流された。家屋の流失によって空き地も増えた。セイタカアワダチソウは生命力が強い。だから、他の植物が津波の塩害によって生えることができなくても、セイタカアワダチソウは生えることができる。他の植物が生えていてさえ、割り込んできて勢力を広げようというセイタカアワダチソウである。先にそれが生えてしまえば、もう他の植物は生えられない。浸水地域で勢力を大きく拡充したセイタカアワダチソウは空中に種を飛ばし、浸水地域以外でも猛烈な勢いで増えた。

 この仮説が正しいかどうかは分からない。だが、もしも正しかったとしたら、津波の被害は人の命や家を奪うだけではなく、植生や、それに影響される生態系にさえ及ぶということになる。植物の価値に優劣をつけることは、人の命の軽重を論ずるようなもので、本当はしてはいけないのかも知れない。しかし、セイタカアワダチソウが我が物顔に増え、この世を埋め尽くしていくのは、私には耐えがたい。