『長兄』の作者、ハン・スーイン



 今朝の朝刊でハン・スーイン(韓素音)の死を知った。中国人の父とベルギー人の母との間に生まれ、インド人の夫を持ち、没したのはスイスであった。95歳。

 なんでも映画『慕情』の原作者として有名らしいが、私にとっては『長兄〜周恩来の生涯』(川口洋・美樹子訳、新潮社)の作者である。我が家には、結構な数の周恩来伝があるが、その中でも優れた作品である。少なくとも、中国現代史に特別な関心がない人でも読める周恩来伝の中では、最良と言ってよいだろう。それは、例えば、日本語訳が出ていて、かつ似たような分量であるディック・ウィルソンのもの(『周恩来〜不倒翁の生涯』時事通信社)と、延安整風運動時期や死の前後を読み比べてみるとよく分かる。記述が正確で、話にメリハリがある。特殊な学術書以外で、私が索引を作りながら読んだのは、この本と、S・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』だけである。

 ハン・スーインは「まえがき」の中で、「私は周恩来の失敗、短所を探し、それらを書き記した」と書いているが、訳者は「あとがき」の中で、その「まえがき」に触れつつ、「周恩来への讃歌であり、敢えて言うなら「周恩来へのラヴレター」になっている」と書いている。作者が敢えて書き記したという失敗や短所が何なのか、読んでみても今ひとつ明白には伝わって来ない。そして、結果として「ラヴレター」になってしまうのが、周恩来という人物の偉人たるゆえんであるにしても、作者自身は、周恩来があまりにも魅力的で完全であり、それに溺れる自分を知っているが故に、「ラヴレター」となることから逃れようと葛藤した、それがこの本の面白さにもなっているのだろうと思う。

 作者は、夫がインド軍人であることを利用し、中印紛争の際に、ネルー周恩来の仲介役を務めたりして周恩来夫妻と直接に関わった。「あとがき」によれば、作者は周恩来と11回、夫人・訒穎超(とうえいちょう)と6回会い、長時間のインタビューを行ったという。以前にも書いたことがあるが、直接体験した、直接会ったことがある、というのは独特の力を持つものである。私にとっても歴史上最も偉大な人間である周恩来を、直接に知る最後の世代の一人が亡くなったことは寂しい。合掌


(余談)

 ついでに、周に関わる本で、私のお気に入りを1冊書いておこう。西園寺一晃『訒穎超〜妻として同志として』(潮出版社)である。周恩来・訒穎超夫妻は、中国革命における理想の夫婦として有名であった。この本がどれほど史実に忠実であるかは何とも言えないが、その素朴で誠実、しかも強靱な意志に貫かれた夫妻の人柄と、共に多忙を極めていてほとんど顔を合わせることすらないのに、お互いをよく理解し、離れがたく結びついている夫婦の姿をうまく描いて、読む者に得も言われぬ安心と希望とを与えてくれる。私は、この本をよく結婚祝いに添えて人に贈る。