3ヶ月目の風景



 3ヶ月が経った。早いのか遅いのか、よく分からない。身の回りの情景は、信じられないほど変化した。何かの記念に、書き留めておこうと思う。

まずは、我が家から南側に見下ろすことのできる南浜町・門脇町の風景だ。ガレキ撤去は、自衛隊によって猛烈なスピードで進んだ。震災1ヶ月後くらいの時には、車で走っても「怖い!」と泣き出していた我が子(3歳)も、今は何も言わない。今月に入り、すぐ南下にあるスーパーの残骸が撤去されたので、かなりすっきりとした。住むことはできないが、原形を留めている家には手がつけられていないので、それらが撤去されるようになると、光景は更に一変するのだろう。

 ガレキの撤去された後は、雑草生い茂る荒れ地になるのだろうと思っていたが、なかなかそうはならない。遠目には草一本生えない荒れ地である。山を下りて中を歩くと、ほんの僅かに生えている雑草を見付けることが出来るが、何しろ海水に浸された土地である。「僅か」でも生えてくるのはすごいと雑草を評価すべきか、雑草さえ「僅か」しか生えられな海水の威力に驚くべきか悩ましい。

 1700世帯が住み、そのうち何人が死んだのか、まだ把握されていないという南浜町・門脇町には、現在は一人も住んでいない。夜も、我が家の南側には真っ黒な闇だけがある。驚くべきことに、先月半ばから、そこに電信柱が立てられ始めた。一時は朝4時から作業をしていて騒々しかった。一体、どこに電気を通すために電信柱が必要なのだろうか?しかも、今回の震災を一つのチャンスと考え、斬新な都市計画案があれこれと提示される中、相変わらずの電信柱+空中電線には驚く。日本の風景を醜いものにしている悪の元凶が空を横切る空中電線であるとし、「日本電線撲滅協会会長」を自称する私としては、何とも気の滅入ることである。

この数年、我が家の近くで、古い木造家屋付きの200坪の土地が売りに出されていたが、「売却物件」の看板が外されることはなかった。ところが、震災から1ヶ月ほど過ぎた頃、その看板が消えた。今回の震災で株を大いに上げた日和山である。土地と家はいくらでも買い手がいる、という状態なのだろうと思う。ただでさえも大量のガレキの処理に苦労している最中、わざわざガレキを増やすこともあるまいにと思うが、もとあった木造家屋のみならず、庭木も石塀も撤去され、どうやら2軒の家を建てるべく準備が始まっている。

 日本製紙の工場も、9月再開を宣言してから、急ピッチで復旧作業が進むのを感じるようになった。それでも、工場内部のことは分からないが、ようやく大きなガレキが撤去されただけで、先の長い話であると感じる。

 市の中心部のように、津波の直撃を受けず、浸水だけに止まった場所は、ほとんど復旧が完了したようにさえ見える。再開させる気のある店は既に再開し、現在閉まっている店は廃業を選択したものが大半のようだ。シャッターストリートの寂しさはやや加速した感じだが、少なくとも津波の痕跡は、探さなければ見つからない状態になった。アイトピア通りという旧商店街にも街灯がつくようになった。

 物流は完全に回復した。4月のガソリン不足騒ぎも本当にウソのようだ。ただし、中古車だけは相場が上がったという不満をよく耳にする。

 5月19日にJR石巻線が小牛田から石巻まで開通した。信号装置が万全でないため、臨時ダイヤで本数は少ないが、仙台や東京に鉄道で出られるようになったという安心感は大きい。仙台行きの高速バスも、積み残しを出すこともなく、かなりスムーズだ。まだまだ復旧車両はたくさん走っているが、渋滞はかなり緩和され、震災前の道路事情に近づいてきたような気がする。理由はよく分からない。

 地盤沈下による道路の冠水はまだ続いている。海岸には、巨大な土嚢が並べられているが、海水は海岸から流入してくるだけではなく、地下水路等を通して入ってくるので、なかなか根本的解決は難しい。原発問題を別格とすると、これが最もたちの悪い問題かもしれない。

 ホコリは相変わらずひどく、ハエも多いが、町全体を覆っていた耐え難い魚の腐敗臭は、この数日かなりよくなった。魚が腐り尽くしたり、処分された結果だとすれば、ハエも減少に向かうのだろう。

 世の中が平常に戻りつつあるとは言っても、避難所の住人はさほど減らない。水産高校の我がクラスでも、新学期当初と変わらず、41名中6名が今も避難所から通学し、15名が親戚・知人宅から通っている。水産高校仮設校舎のある石巻北高校の体育館は、今でも避難者が住んでいて、授業にも部活にも使うことができない。

 学校は、不自由ながらもなんとか授業ができるようになった。しかし、まず長距離通勤の職員が増えた。被災して石巻の家が居住不能になった場合、新たに家を探すと、どうしても大崎、利府、仙台といった所になってしまうということだ。また、ほとんどの学校でALTがいなくなった。欧米人は、原発で事故が起こるや帰国してしまって、日本に寄りつこうとはしない、もしくは、日本に戻ろうと思った時には、住居が確保できない、ということらしい。仮設住宅の建築は急ピッチで進んでいる。


 生活は便利で快適になったが、一方、震災直後を懐かしく思い出すことが日に日に増えているようにも思う。当時は、時間がゆったりと流れていて、どこへ行っても新鮮な発見と驚きがあり、街で見知らぬ人と自然に会話ができた。たった3ヶ月で、毎日何かに追われるようにバタバタと泥縄生活をし、知らない人とは挨拶さえしないような、あの窮屈で孤独な日本だ。全滅した浜の避難所に暮らす人々の笑顔が素敵であるのは、まだ震災直後の空気の中で生きているからだろう。