谷川浜の風景と牡蠣の垂下



 昨日は、例によって「便乗ボランティア(分からない人は5月14日の記事参照)」をしていた。S嬢を案内して女川に行ったところ、K君から「渡波で下ろすはずの荷物を鮎川に持ってきてしまった」との電話が入ったので、急遽、鮎川まで荷物を取りに行くことになった。せっかく女川にいることでもあるし、ここはひとつ牡鹿半島の裏道を行ってみようと、高白(たかしろ)浜から谷川(やがわ)浜を経て大原に抜けることにした。とりあえずS嬢との不意のデートも心楽しい。ところが・・・

 いやぁびっくりした。石巻、野蒜、女川、南三陸気仙沼と見ていたので、今更驚いたりしないと思っていたが、甘かった。谷川には、これまでに見たどことも違う異質な光景が広がっていた。30分ほど前に女川を見、谷川のかつての姿を知らないS嬢が「ひゃぁ!」という声を上げたのだから、相対的なひどさではなく、絶対的な悲劇性がある風景に違いない。

 谷川にはガレキがほとんどない。散らばっているものは「ゴミ」といった感じのものだけである。こんな所のガレキを、市が他に先駆けて撤去するわけがない。今日になって水産高校の先生に尋ねてみたところ、谷川のガレキは、ほとんど全て引き波によって海に持って行かれたのだろう、ということだった。生き残った家は、一番大原寄りにある1軒だけ。それ以外には、家も、そして家があった形跡もない。確かに、基礎の残っているところは多いようにも思うが、多量の砂がそれらを覆っていて、あまりすぐには目に付かない。「砂」という言葉で、違和感を覚えた人は敏感だ。津波について語られる時、決まって登場するのは真っ黒な「泥」だからである。

 ただの「浜の空き地」になってしまった谷川に、今後人が住むことはないだろう。寂しい風景であった。


 一方、今日は、水産高校のS先生に、「梨木畑(なしのきはた=渡波地区の一集落)で、牡蠣の垂下をするから来ない?」と誘われ、栽培漁業の先生3名、増研(←これが分からない人は、昨年5月10日の記事参照)の生徒2名、栽培漁業類型3年の生徒5名と参加した。見学、実習と言うより、ボランティアである。みっちり4時間、作業に汗を流した。

 宮城県広島県に次ぐ牡蠣の産地だが、実は「種牡蠣」については、全国の8割を超える圧倒的なシェアを誇っている。ここで行われているのは、私たちが食用として通常お目にかかるむき身の牡蠣ではなく、その種牡蠣作りである。

 昨年の夏に、ホタテの貝殻を針金で大量に連ねて海中に下ろし、自然に牡蠣の幼生を付着させてあったものの一部が、今回の震災で奇跡的に生き残った。今回は、それを一度ばらして、10cmほどの間隔を空けながら2m半くらいのローブに挟み込んでいく。それを、浮き玉をつけて横に張ってある沖のロープに結び、海中に垂らすという作業である。うまくいけば、これが成長して7月頃には産卵し、それが海中に漂って、今後豊かに種牡蠣を作れる漁場ができる、とのことである。つまり、今回の作業で、直ちに何かの収獲が得られるわけではないが、近い将来の漁業のためには重要な作業だということになる。

 牡蠣養殖50年という大ベテラン・Aさんにご指導頂きながら、私もせっせと作業に励む。単調な作業であるが、漁師達も、生徒達も表情が明るい。これは、震災後ようやく「何か」が動き出したことによる高揚感によるだろう。うまくいくかどうかは分からないが、作業をすれば、次の希望が一つ見えてくる。じっと立ち止まって何かを考えるのではなく、とにかく動くこと、その大切さをひしひしと感じた。

 すべて出来上がると、船に積み込みいざ出発である。本当に久しぶりに海に出た。万石浦を南から北に向けて3分の2ほど走る。内海でもあり、天気もよかったので、水面は非常に穏やかである。今日は少し蒸し暑かったが、海の上は爽やかで、その広々とした空間は最高!!。海苔や牡蠣の養殖に使っていた竹製のいかだは、津波によってほとんど壊され、海の上には浮遊物も多いが、船の航行に支障があるほどではない。わずか数分で作業場に着く。

 生徒が手渡す殻付きロープを、4人の漁師が手際よくロープに結び付け、海中に下ろしてゆく。確かに多少の手間はかけるのであるが、種を植えるわけでなし、餌をやるわけでなし、牡蠣(種牡蠣も親牡蠣も)は基本的に海の中で勝手に出来上がるのである。海の中にゆらゆらぶら下がっているホタテの殻(牡蠣)を見ていると、「恵みの海(海の恵み)」という言葉が、しみじみとした感慨をもって胸に浮かんできた。津波以来、海は悪役になりすぎている。しかし、どんな温厚柔和な聖人君子だって、5年や10年に一度くらいは、声を荒げることもあるだろう。今回の津波なんて、おそらくそんなものだ。今日下ろした牡蠣が順調に成長して、元の豊かな海を回復させてくれますように。