「高校生ボランティア」及び「放送による生徒総会」



(6月14日付第2次月曜プリントより補筆転載)

1)高校生ボランティア

 先週の土曜日、私はちょっとした縁があって関わっている愛知県のボランティアグループと行動を共にしていた。彼らは毎週バスを連ねて、0泊3日で石巻気仙沼に来ている。そのパワーと、何かできることがあればしてあげたいという「心」とに頭が下がる。

 さて、先週はなんと、高校生がバス7台分(石巻・牡鹿はそのうち2台)来るというので、私も楽しみにしていた。やって来た高校生(なぜかすべて私立←どうしてかな?)は、牡鹿半島のいくつかの浜に分かれて炊き出し等の活動を行った。

 私は、彼らがどのようないきさつで参加することになったのか、あれこれ質問をしてみた。意地悪な私は、多分、先生か親に強く勧められたに違いないと思ったのである。ところが、決まって「今回来たのは自分の希望?」「はい」「先生とかに誘われたんじゃなくて?」「はい」「どうして?」「えっ?やっぱり困っている人とかいるんじゃないかな、自分にできることがあればしたいな、と思って・・・」というような話になる。

 諸君が同じ立場だったら、果たして、バスで12時間かかる所まで、1万円の参加費を払って出掛けて行くだろうか?いや、私にだって難しい。彼らにそれができるのは、自分の周りに広い世界が広がっていること(を知ることの必要性)を知っているということであり、遠くの状況に対して想像力がきちんと働くということの結果である。

 私は、これこそ「勉強ができる」ということだと思うし、「勉強」の目的なのだと思う。「勉強ができる」と言って、試験の点数や通信票しか思い浮かばないというのは非常に貧しい。学校の外の社会に目を向け、社会と関係を作っていくことで、人は精神的にも成長する。さほど多くの会話ができたわけではないが、私には彼らがとても大人に見えた。


2)放送による生徒総会

 昨日の「放送による」生徒総会はお粗末だった。「賛成多数で承認された」に文句を言えないようでは困る。生徒総会(のみならず、他の会議も・・・)とは、みんなで話し合いながら社会を作る(これを「民主主義」と言う)練習として行われている。誰かが放送で一方的に議案を読み上げ、何も意見を求める努力をせず、「賛成多数で〜」と言って文句も出ないとなれば、まるでファシズムの世界である。

 今回、生徒総会を放送でやったのは、全体で集まることが難しい状況下での、窮余の一策であって、本来の姿ではない。「面倒が無くて、かえってよかった」とは決して考えないこと。もともと、みんなで社会を作るのは面倒なことであり、その面倒を避ければ、やがて更に大きな取り返しのつかない面倒が発生するというのは歴史の法則だ。