これは本当に「津波」のせいか?



 先週の金曜日の夜、NHKの「クローズアップ東北」という番組を見た。被災地の小学校で、子供たちの肥満が進んでいるという。取り上げられていたのは、震災前の水産高校のすぐ近くにある渡波(わたのは)小学校である。ここは、1階の半分以上の高さまで津波が押し寄せ、現在、生徒は毎朝そこに集合してバスに乗り、15分ほど離れた稲井中学校校庭の仮設校舎に通っている。

 番組の中で描かれた子供たちの生活は、こういう感じだ。

 仮設校舎では、小学校と中学校の時程がずれていることもあり、休み時間に校庭で遊ぼうと思っても中学生が体育の授業をしたりしているので、遊ぶ場所がない。昇降口の周りで多少体を動かすだけだ。家に帰っても遊ぶ場所がない。公園には仮設住宅が建っている。生徒も仮設住宅から通っている子が結構いる。外に遊ぶ場所がないので、小さな家の中でゲームをしている。その結果が運動不足による肥満だ・・・。

 事情を知らない人が見たら、う〜ん、やはり被災地の子供はかわいそうだ、と涙の一つも流しそうだ。しかし、私は、被災地についての報道は相変わらずケシカランなぁと、腹を立てながら胡散臭い思いで見ていた。問題は2つある。

 一つは、本当は遊ぶ場所などいくらでもあるのに、それを敢えて見ないふりをして、「かわいそうな被災地の子供たち」を作り上げているということだ。

 確かに、稲井中学校の校庭を使える時間は限られているかも知れない。しかし、放課後、バスで渡波に戻れば、今、渡波小学校の校庭は使える状態になっている。仮設住宅の建っている公園もあるにはあるが、そうでない公園もいっぱいある。寺や神社の境内で、仮設住宅が建っているところはない。渡波にしても稲井にしても、自然豊かな場所で、田んぼも山も近くにある。これで、なぜ遊ぶ場所がないという話になるのか、私には理解できない。

 昨年10月31日、私はこのブログに「「悲劇」と「英雄」を求める心」という一文を書いた。反響の非常に大きかった記事である。私は、その中で、ある新聞社が我がクラスの生徒を取り上げた記事の内容について、生徒本人から事情を聞きながら、どの程度事実が正しく書かれているかについて検証した。そしてその潤色ぶりのひどさを確認した上で、その潤色が、話をより悲劇的に、主人公をより英雄的に描くという明瞭な方向性を持っていることを指摘し、それが被災地に関する報道の一般的な姿を代表していると評したのである。今回のNHKの番組も、被災地をあえて悲劇的に描こうとしているという点で、全く同じだ。

 渡波小学校の子供が外で遊ばないのは、場所がないからではない。整えられた校庭や公園でなければ「危ない」と言って遊ばせない傾向、外での遊びや、遊びを自在に工夫し創造するという技術や精神が、他の種類の遊びによって継承されなくなってしまったという問題の結果だと思う。

 もう一つの問題は、今のことと関係するが、外で遊べなければゲームなのか、という問題である。震災の影響で、外に遊ぶ場所がないということを、百歩譲って認めたとしても、だから部屋の中でゲームをするしかない、というのは理解できないことである。

 一人の親として、他の親のすることが理解できないことはたくさんあるのだが、特にゲーム機や携帯電話の安易な買い与えは、その筆頭である。「子供が喜ぶ=善」では決してない。これほど安易に、強い刺激が得られる道具があれば、外で工夫しながら遊ぶという最初は面倒なことを、子供が自らするようになるわけがない。

 つまり、被災地の子供がことさらに肥満するとしても(学者がデータを示していたから正しいのかも知れないが、これだって被災した門脇小学校に通う私の子供の友達を見ていると、なんだか怪しいという気がする)、その原因は、遊ぶ場所がないから、でないことは間違いない。ほんの少し環境が変わっただけで、「遊べない」としてしまう文化の問題である。本当は子供はそんなに弱くない。「危ない」とか「仕方ない」とか言いながら子供を囲い込み、子供が喜ぶことはいいことだと誤解したり、面倒を避けるためにゲーム機を買い与えたのは大人であり、そういう大人が子供を遊べなくしているだけだ。

 津波のせいにし、子供たちに同情の涙を流せば、偽善者としていい気分にはなれるだろう。しかしそこには、報道のあり方、子供の文化環境(文化汚染)という、津波よりはるかに大きくやっかいな、自分たち自身の問題があることを忘れてはならない。