YS-11の設計部長



 訃報欄を見ていて、故人の名前よりも「YS11」という国産旅客機の名前の方が、先に目に入った。その設計に携わった人で、開戦時の首相・東條英機の息子である東條輝雄氏の訃報であった。98歳。ははぁ、それなら見たことのある名前だぞと思って、書架から『YS-11 〜国産旅客機を創った男たち』(前間孝則著、講談社、1994年)を引っ張り出してきた。東條輝雄氏のしたことを確認するためだけにパラパラとページを繰り始めると、いつのまにか読書へと変わり、結局、550ページに及ぶ大著を、この二日間ですっかり読み直してしまった。

 「携わった」などという、その他大勢の中の一人というものではない。国産の飛行機を作るべく下準備を始めていた輸研(輸送機設計研究協会)が、1959年に国のバックアップを得て日航製(日本航空機製造)という会社となり、具体的な作業が本格化する時に、東條氏は新三菱重工名古屋航空機製作所から設計部長として招かれ、正に国産旅客機設計の責任者として、非常に大きな役割を果たしている。航空機設計においても組織の統率においても、極めて優れた能力を持っていた人らしく、試験飛行が始まって間もなくの1963年1月に、一度三菱重工に戻るが、半年あまりで呼び戻されている。

 私は、飛行機など石油の消費が甚だしく、温暖化にもよくないから、そうむやみに飛ばしてよいものだとは思っていないが、人間が創意工夫を重ねて壁を乗り越えながら、新しいものを作り上げていくことは、作っているものが何であれ、私に夢とトキメキを与えてくれる。YS-11の開発ももちろんだ。

 余談に及ぶが、私は一度だけ、YS-11に乗ったことがある。1981年3月2日、大学受験のために兵庫県の片田舎から仙台に向かった時だ。大阪から仙台まで、まるまる2時間かかった。当時、日本の空も既にジェット機が主流となっていたが、大阪・伊丹空港には確か騒音問題の関係で、ジェット機の発着枠というのがあって、比較的需要が少なかった仙台便は、1日4往復のうち、3往復がYS-11による運航となっていたのだ。YS-11は貴重な国産旅客機であるが、既に続々と引退が始まっており、近いうちに日本の空から消えてしまうであろうこと、飛行機に乗る機会などそう多くない私にとって、そのフライトが貴重な体験だということは、当時の私も意識していた。飛行高度が低く、地上の景色がよく見えると感心した思い出が残っている。もちろん、開発の歴史も設計部長東條輝雄の名前も、当時の私には分かっていない。

 それはともかく、新聞によれば、東條氏は、その後1981年に三菱自動車の社長となり、翌年、パジェロの発売に立ち会っているらしい。日本が、高度経済成長にわき、物作りにおいて世界に頭角を現し、その地位を確立させた時期に、飛行機や自動車という花形分野で中心になって大きな仕事が出来たことは、実に幸せなことであっただろう。

 A級戦犯東條英機の息子であったということを、何かの形で問題にされることがあったのか、なかったのか?そして、東條氏自身がそのことをどのように受け止めていたのか?もちろん、個人主義者である私はそんなことを問題にする気はないし、書かれたものを目にしたこともないのだが、往々にして、息子は父親の存在を意識するものである。東條氏自身の心の問題として少し興味が引かれた。合掌