宇宙と人の世・・・海部宣男氏を悼む

 一昨日の新聞各紙に海部宣男氏の訃報が出た。どの新聞も、写真入りの比較的大きなものである。元国立天文台長、国際天文学連合会長、日本学士院賞受賞者となれば、そのような扱いにもなるだろう。文化勲章を取れなかったのは、75歳で死んだからであって、80まで生きていたら、受賞は確実だったのではないか?
 しかし、新聞での扱いが大きかったのは、そのようないわば世俗的成功者であったと言うよりは、すばる望遠鏡計画の責任者として、その完成に大きな役割を果たしたという点に、その理由があるようだ。
 言うまでもなく、すばる望遠鏡とは、ハワイのマウナケア山頂、標高4200mの所に日本が作った口径8mの巨大反射望遠鏡である。130億光年を超える距離にある銀河を発見したり、息を呑むような素晴らしい天体写真の撮影に成功したりした、日本を代表する科学的観測機器のひとつである。
 私は訃報を前にして故人を偲ぶということをよくする。このブログにも「訃報」というカテゴリーが設定してあるほどだ。新聞記事を前に、私は自宅の書架から『宇宙の謎に迫る日本の大望遠鏡「すばる」SUBARU』(誠文堂新光社、2000年)という本を引っ張り出した。著者は国立天文台教授・唐牛宏。協力として「国立天文台ハワイ観測所すばるプロジェクト室」の名が書かれている。私の認識としては、すばる望遠鏡の公式ガイドブックである。A4判、写真は美しいが、わずか111頁で3000円という立派なものである。
 この本を見たり読んだりしながら、私は大きな戸惑いを感じていた。なんと、海部宣男氏の名前が一度も出て来ないのである。安直ながらWikipediaによれば、「1991年、建設を開始するすばる望遠鏡プロジェクトのため野辺山宇宙電波観測所から国立天文台本部(三鷹市)に移り、公募により「すばる望遠鏡」のニックネームを選んだ。1994年からすばるプロジェクト推進部主幹、また1997年からは初代ハワイ観測所長として日本で初めての海外観測所を立ち上げ、またマウナ・ケア山頂での建設をリードして、すばる望遠鏡を完成に導いた」。すばる望遠鏡が完成した1998年末を挟み、1997年から2000年までその観測本部たるハワイ観測所で所長を務めたことからすれば、海部氏がすばる望遠鏡の完成に大きな役割を果たしたことは、絶対に間違いのないことに思われる。国立天文台のホームページに掲げられた訃報にも同様の評価が書かれている。にもかかわらず、その公式ガイドブック的な本に一度たりとも名前が登場しないのはなぜなのか?
 それは、海部氏の果たした役割が小さいのではなく、執筆者である唐牛宏氏の屈折した思いを表しているとしか考えられない。唐牛氏は1990年から国立天文台に職を得て、2002~2003年にはハワイ観測所にも勤務している。この間、2000年から6年間は海部氏が台長であった。つまり、海部氏の仕事ぶりを最も身近に見てきた人なわけだが、おそらく何かしらの事情があって、海部氏の仕事を認めたくないという思いを持っているのではないか。
 それにしても、この本には唐牛氏以外の執筆者もいる。元ハワイ大学長・フジオ・マツダ氏がマウナケアの環境について、元国立天文台長・古在由秀氏がすばる建設の経緯について、国立天文台初代会計課長・森豊吉氏が予算獲得について、などなどである。これらの文章に一度も海部氏が出て来ないようにすることは、相当困難で念の入った作業に思える。
 海部氏の逝去に際し、改めてすばる望遠鏡とそれがもたらした素晴らしい科学的知見に思いを致そうと思いながら、話はとんでもない迷宮に向かってしまった。なんだか、人間の世の中の難しさが思われることなのだが、それがすばる望遠鏡のもたらした遙かなる宇宙の姿とあまりにも好対照であることは皮肉である。
 ともかく、その美しい写真を前に、故人の業績に頭を下げよう。合掌。