偉大なり、人間!・・・ベートーヴェンとカッシーニ

 3連休の初日は仕事でつぶれたが、あとの2日は比較的のんびり過ごすことが出来た。今日は朝起きたら天気予報どおりの雪。仙台では20㎝近く積もったらしいが、さすがは石巻、7〜8㎝といったところだった。最高気温が−0.9℃で真冬日だったというが、あまりそんな感じもせず、日中晴れ間が見えてきてからは雪もよく溶けた。我が家から見る景色は絶景。真っ白な陸(南浜町)と、少し鉛色がかった海とのコンビネーションが、いかにも冬らしくて美しかった。
 さて、そののんびりしていた昨夜、テレビを結構長い時間見てしまった。オリンピックではない。Eテレである。
 一つは「クラシック音楽館」で、エサ・ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏によるベートーヴェンの序曲「命名祝日」、ピアノ協奏曲第3番(独奏:チョ・ソンジン)、交響曲第7番(昨年5月21日、横浜での録画)。
 名演かどうかは知らない。そんなことよりも、ベートーヴェンの音楽というのは不思議だと、つくづく思った。以前一度書いたことがあるのだが(→こちら)、どんな特徴があるのか少々とらえどころがない。にもかかわらず、いくら聴いても飽きが来ない。特徴と言えば、この「飽きが来ない」ということ以外に考えられないが、ではなぜ飽きが来ないのか?と問われれば、答えられない。
 昨夜も、読みかけの本を片手に、ながら聴きをしようか、という程度の気持ちだったのに、いざ始まってしまうと、よそ見もせずに最後まで見通してしまった。私の大好きなマーラーでも、今日は聴く気にならないな、という日は必ずある(少なくない)のに、ベートーヴェンについてはそういうことがない。私の気分に関係なく、いつもなんとなく、やがてはぐいぐいと心を引きつけてしまう。このような一種の平凡をこそ「偉大」と言うのであろう。
 オールベートーヴェンプログラムのアンコールには、意表を突いてサロネンの祖国の音楽、シベリウス組曲「ペリアスとメリザンド」から、「メリザンドの死」。これもよかった。ベートーヴェンについては、サロネンの演奏が特別にいいということもなく、間違いなくベートーヴェンの力によって心動かされたと思うが、最後のシベリウスは、選曲も含めてサロネンにしてやられた、という感じ。本当に深い悲しみの音楽だった。
 続いて「サイエンスZERO」。昨年役目を終えて消えた土星観測衛星カッシーニ(タイトルを見て作曲家の名前だと思った人、ごめんなさい=笑)のお話。解説者として登場したのは我が「一高山の会」の、と言うより、国立天文台教授・小久保英一郎氏である(→彼に会った時の話)。
 恥ずかしながら、私は高校時代、天文物理部だったか天文気象部だったかに籍を置いていた。形式上は部長だったような気がする。
 土星を初めて望遠鏡で見たのは、中学2年生か3年生の時である。友人に、自作の4㎝屈折望遠鏡で見せてもらった時、最初はいびつな円にしか見えなかったのが、友人に「そんなわけがないだろ!」と一喝されたり、目が慣れたりしてくるうちに、あの輪がついた土星に見えてきた。そして単純な驚きが、間もなく、これほど美しいものが世の中にあるのか、という感動に変わっていった。その後、土星は何十回となく見たけれど、その都度、感動は新鮮で弱まることがない。黒い視野の中に輝く小さな土星は、それほどまでに神秘的な美である。
 カッシーニが打ち上げられたのは1997年10月15日。7年後の2004年に土星の軌道に入り、以後、13年間にわたって様々な観測を行い、データを地球に送り続けた。その成果を簡潔に伝えてくれたのが昨夜の番組だ。
 小さな望遠鏡で土星を見ることも感動的だが、天文学とか宇宙工学とかの世界に対する感動も常に大きい。望遠鏡にせよ人工衛星にせよ、写真撮影にせよ軌道計算にせよ、宇宙空間という信じられないほど過酷な世界で、信じられないほど精密な機器を使い、信じられないほど高度な計算や観測が行われている。
 カッシーニだって、約12億キロ離れた土星のまわりを回っているということは、私の大雑把な計算でも、信号(=電波=光速)のやりとりをするのに片道約55分、往復1時間50分もかかる。つまり、いかに正確に機器が作動していたとしても、カッシーニの状況を把握して指示を出し、その結果がどうなったかは約2時間後に分かる、という世界だ。この非常にもどかしい状況の中、後から後から新しいミッションを課して、軌道を修正し、更に新しい観測を続けるというのは、驚き以外の何物でもない。それによって得られた写真、その他の成果=土星についての新しい科学的新知見の話は楽しかった。
 カッシーニは、昨年4月、残っていた全ての燃料を使って最後の軌道修正を行い、土星本体と輪の間を通過して土星本体の観測をするというミッションを22回にわたって行うと、9月、地球からの指示によって土星本体に墜落させられた。グランドフィナーレというらしいが、テレビでその様子を見ていると、20年間にわたって誠実・健気に頑張り続けた人が無理に自殺に追い込まれたようで涙が出た。
 燃料を使い尽くしても、本来、カッシーニは惰性で土星のまわりを飛び続ける。太陽電池があるので、観測を継続してデータを地球に送り続けることも出来る。にもかかわらず、カッシーニが「自殺」を強制されたのは、軌道修正用のエンジンを作動させることが出来ないために、生命が存在する可能性がある衛星・タイタンやエンケラドゥスに何かの弾みで墜落し、その環境を汚染することを心配したかららしい。
 カッシーニという探査衛星の存在、その開発からグランドフィナーレまでの軌跡、微かなる信号を通して得た膨大な新知識、全ては人間がいかに偉大な存在であるかをよく物語っているようだ。科学技術については最近冷たい発言の多い私であるが、それは開発された技術を実に「しょうもない」使い方をして人間を堕落させたり、不幸にしたりするからである。土星の探査が人間に堕落や不幸をもたらすことはあるまい。そんな時、人間はあまりにも偉大な存在として燦然と輝いて見える。