改憲論者・某(続)

 いつになく寒い。日差しの明るさはすっかり春なのに、空気はピンと張り詰めている。ほとんど緩むことなく半月ほど続いていることもあって、このアンバランスにはなんだか疲れてきた。

 さて、先日、憲法における自衛隊の扱いについて、多少の意見を書いた(→こちら)。護憲を訴える人は純粋で良心的な人が多いが、世の中はそうなっていないから、机上の空論めいていて説得力に欠ける、理想と現実をはっきり分けて議論しなければ・・・というようなことである。
 その後、昨年7月22日に「憲法9条の意義を学ぶ学習決起集会」の記念講演記録というものを人からもらった。どこで行われたものかは知らない。講師はジャーナリスト・伊藤千尋氏である。私はよく知らない。
 それを読んでいると、次のような一節があった。コスタリカと日本とを比較しながら、国防や治安維持ということについて論じた部分である。

「日本の場合は、海上保安庁の規模がめちゃくちゃ小さいのです。ここが問題です。だから丸腰みたいに思われるのです。僕は、海上自衛隊航空自衛隊の規模を全部海上保安庁に移せばいいと思っています。」

 ははぁ、「憲法9条の意義を学ぶ学習決起集会」などというものに講師として呼ばれるほどの護憲派でも、国防という問題について何も考えていないわけではないのだな、と思ったが、そこで「感心、感心」とはならない。むしろ、正気か?!である。
 日本では憲法上「軍隊」を持てないことになっているから「自衛隊」と称した。ごまかしである。今度はそれを「海上保安庁」にするのか?「海上自衛隊航空自衛隊の規模を全部海上保安庁に移せばいい」というのは、明らかにそういうことだろう。ごまかしの上にごまかしを重ねることになる。それを、「金額のやり取りはしたが、価格の提示はしていない。」(森友問題に関する財務省答弁)などとのたまふ政府関係者が言うならともかく、護憲派集会の講師が言ってはいけない
 海保にそれだけの装備と機能を持たせるなら、今度は海保がその力を使って悪いことをしないように縛る必要がある。どうやって縛るのか?国家権力を縛るのだから、やはり憲法しかないだろう。こうなると、伊藤氏のどこが護憲派なのか?彼の海保論で憲法に手を付けなければ、自衛隊以上に軍に見えない組織であることを利用して、憲法の網をすり抜けるのに手を貸しているようなことになってしまう。自衛隊をいかにも9条に反する組織として意識しているよりも、よほどたちが悪いのである。
 伊藤氏のような考え方が、果たして護憲派の中でどの程度の割合を占めているのかは知らない。だが、伊藤氏が護憲派の集会に講師として招かれるほどの人だとなれば、例外だとも思えない。私の頭は混乱しそうだ。
 昨日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄に載った元内閣法制局長官・阪田雅裕氏に対する巨大なインタビュー記事は面白かった。
 氏は、「とりあえずあいまいにしておこうという玉虫色の条文は、将来のために一番よくないことです。」「今の9条では、いずれ解釈が広がりかねないという意味で、大きなリスクをはらんでいます。」「(憲法が一度も変わらなかったことについて)多少、マイナスだと思っています。9条の無理な解釈変更を招いてしまったということを考えれば。」と語る。至ってまっとうな認識だ。その上で、自らの改憲案を提示する。
 従来の9条を残したままで、3つの項を加えるという、いわゆる加憲案だ。第3項(自衛のための必要最小限度の実力組織保持の容認)、第4項(武力攻撃を受けた時、必要最小限度の武力行使の容認)はいいと思うが、第5項(必要最小限度の集団的自衛権行使容認)は余計だ。氏は「安保法制が成立してしまった以上、いくら『違憲だ』『無効だ』と言っていても生産的ではない」という自説に基づき、第5項で集団的自衛権を「必要な最小限度」としながらも認めようとしているのだ。私が憲法を現実に合わせるべきだと言っているのは、国民の大半が自衛隊の存在を(規模はともかく)必要やむを得ざるものと考えていると思うからであって、既に存在しているから、ではない。大きな問題を含みながら与党が無理やり成立させてしまい、過半数かどうかは知らず、相当数の国民が未だに容認していないと思われる安保法制を追認するのは、明らかにそれと違う。ごり押しでも何でも、国会で決まったことだからと憲法で追認するという発想は、権力を縛るという憲法の理念からして本末転倒、明らかな間違いだし、その前例を作り出してしまうのは非常に危険だ。
 ともかく、目指すべき理想、認めざるを得ない現実、認めてはいけない現実がそれぞれ何で、憲法は理想を語るべきなのか、現実的な効力を持つべきなのか、その辺を曖昧にして議論すると、非常に話が分かりにくい。私がいつも言うことだけど、やっぱり前回書いたその点に戻る。