いかがわしき「中立」

 金沢市役所前の広場で護憲派が集会を開くことを市が不許可としたのは、「集会の自由」を定めた憲法に違反するとして市民団体が起こした訴訟で、昨日、最高裁が合憲判決を出した。なにしろ憲法判断である。それなりに重大問題と認識されていたらしく、新聞各紙は元より、多くのメディアで報道されたいた。
 私はその広場がどのようなものか知らないので、あまり偉そうにものは言えない。いくら「集会の自由」が憲法で保証されていたとしても、それが無制限である必要は必ずしもないだろう。例えば、市が集会を禁止した理由が、集会の騒音によって市役所の業務に支障が出る、といったものであれば、場合によっては禁止も仕方がない。ところが、どうやらそうではないらしい。新聞記事を読みながら、なかなかに由々しきことだな、と思うようになった。
 市役所前広場で護憲派が集会を開くことを市が許可すれば、「市の中立性に疑義が生じ、公務の円滑な遂行に支障が生じる」というのが、主な理由らしい。これは変だ。私の頭に思い浮かんだのは、昨年3月に行われた、日本の国会でのゼレンスキー演説である。
 昨年3月23日、ウクライナ大統ゼレンスキーからの申し出で、日本の国会では彼のオンライン演説が行われたのだが、その際、「国会議員が紛争の一方の当事国の言い分だけを聞くのはいかがなものか」として、実施に反対する議員がいたという。私は、プーチンからも同様の申し出があり、そちらは拒否してゼレンスキーだけに演説させるならともかく、演説したいと申し入れてきたのがゼレンスキーだけなのだったら、許可することに何の不都合があろうか、というようなことを書いた(→こちら)。
 金沢もまったく同じだ。改憲派の集会には不許可で、護憲派の集会だけ許可するというならともかく、申し込んでいるのが護憲派だけなのだとしたら、許可するのに何の不都合もない。それを聞きつけて改憲派が集会を開きたいと言いだした時には、それも許可すればいいのだ。中立というのは、改憲派護憲派の共同開催だけを許可するのではなく、どんな団体が主催する集会であっても、分け隔てなく許可することであるべきだ。市が護憲派の集会に許可を出さなければ、改憲を指向する政府の意向を忖度したものとして、かえって市の中立性が疑われることになるだろう。
 これも安倍政権の時からだったと思うが、片方の意見だけ取り上げるのは問題だ、常に両論併記にせよ、というような意見があって、それがいつの間にか慣習化されてしまった。何でもかんでも、常に両論併記でなければ偏っている、それができないのだったらいっそのこと黙っていろ、という話になれば、得をするのは強くて目立つ立場の人間。つまりは与党勢力になってしまう。
 最高裁第三小法廷5人の裁判官のうち、宇賀克也氏だけは反対意見を述べ、全員一致の判決にはならなかった。宇賀氏の意見は、「『中立性に疑問が生じる』という抽象的な理由で利用させないのは、集会の自由の制限であり、正当化できない」というものだったらしい。限られたスペースでの報道なので、詳細が分からないもどかしさがあるが、あえて異を唱えた宇賀氏は「あっぱれ」である。