ハンマークラヴィーア・ソナタ

 もはや5日も前のことになるが、今週の日曜日、私は仙台市のパトナホールというところで行われた福原佳三というピアニストのリサイタルに行った。パトナホールも初めてなら、福原というピアニストも初めてである。
 心引かれたのは、第一にプログラム。ベートーヴェンピアノソナタ第27番〜29番、中でも第29番「ハンマークラヴィーア」である。かつて、べートーヴェンの交響曲の中で最も好きなのは第3番「英雄」、弦楽四重奏曲では第14番といったことについて書いたことがあるが(→英雄、→弦楽四重奏)、ではピアノソナタは?と言えば、あくまでも「あえて言えば」なのだが、この第29番なのである。我が家のCDラックを探してみたら、この曲のCDが7枚見つかった。ベートーヴェンソナタとしては最多である。なにしろ、ベートーヴェンピアノソナタの中で最大最長、40分以上を要する大曲である。他の曲の余白に収録されているなどということはない。だから、その7枚は間違いなくこの曲を主題とするものであり、買った私もそれを目当てにしていた、ということになる。そう思うと、7枚というのは決して少ないとは言えない。
 「英雄」の演奏会には、ほとんど1〜2年に一度のペースで足を運んできた。地方都市に住んでいると弦楽四重奏の演奏に接する機会そのものが極めてまれなのであるが、それでも第14番を聴く機会が2度はあった。そして「ハンマークラヴィーア」は?・・・おそらく今までに一度もなかった。自宅にじっくりと音楽に向き合う環境がないこともあって、演奏会はそれが出来るだけでも、つまりは演奏の質に関係なく貴重である。静かなホールの中で、じっくりと「ハンマークラヴィーア」を聴いてみたい。そう思った。
 第二に、福原佳三というピアニストである。50代前半かと思われる。全然知らない人だったが、チラシによれば、15年前にバイクにはねられて大けが(び慢性軸索損傷)をし、左半身麻痺の後遺症が残ってしまった。それを必死のリハビリで回復させ、事故から4年目に演奏会復帰を果たした。事故によって第3回で中断していたベートーヴェン・チクルスも、この時に再開させたのだという。そして今回は、その第8回。
 よくありそうな復活物語で、エージェントがそれを「売り」にするために話を誇張しているのではないか、という疑念さえ抱くのであるが、たとえ同様の事例が数限りなくあったとしても、本人にとっては唯一絶対の深刻な壁であり、その壁を乗り越えた時に見えてくる風景にもマンネリなどあり得ない。だとすれば、そこまでの努力をしてどうしても演奏したかったベートーヴェンには、それなりの力があるはずである。エージェントによる誇張があるかないか、それは知らない。ともかく、知らない人だけに、意外性を楽しみにして一度聴きに行ってみようか、ということになった。
 最初に書いておくと、福原佳三というピアニストには驚いた。それはもはやプロとしてお金を取って人に演奏を聴かせてよいレベルではなかった。確かに「ハンマークラヴィーア」は難曲として有名ではあるが、難曲を難曲とは聴かせないのがプロである。しかも、福原氏の演奏がメチャクチャなのは、その前の2曲も含めてのことであった。事故の後遺症なのか、もともと下手なのかは分からない。アマチュアが入場料500円で開いた演奏会なら、その努力に拍手を惜しまなかっただろうが、曲がりなりにもプロを名乗り、2500円を取るとなれば、「お粗末!」と切って捨てるしかない。客の入りは2割といったところ。事情が分かっている人は来ないわけだ。
 一方で、人間の脳には補正能力というものがある。いかに下手な演奏でも、それを補正し、曲の理想的状態をイメージしながら聴くことが可能なのである。絶対に邪魔が入らないコンサートホールという空間の中で、私の心の中にある「ハンマークラヴィーア」と向き合い、ベートーヴェンのメッセージに耳を傾けること、それは出来たと思う。
 「ハンマークラヴィーア」は1919年、すなわち56歳で死ぬベートーヴェンが48歳の時の作で、ピアノソナタ32曲中の29番、作品番号138番中の106番である。交響曲で言えば、最後の1曲である「第九」を除き作曲が完了している。時期的には半ばを遙かに過ぎ、むしろ晩年にさしかかっていると言ってよい。4楽章形式を持つ最後のピアノソナタであり、前にも書いたとおり、演奏に40分〜45分を要する(この曲は、演奏時間のばらつきが非常に大きい。私が持っている録音で最短はグルダのもので37分、最長はギレリスで48分半)。精力に満ちあふれた壮年期のベートーヴェンのエネルギーと、晩年の境地、哲学性といったものが渾然と一体化した名曲と思える。
 以前も書いたとおり(上に示した「英雄」に関するリンク記事。また→こちらも)、これだけベートーヴェンを聴いてきながら、私にはその魅力の正体が分かっていない。単に「飽きが来ない」と言えるばかりである。ある演奏家が「ベートーヴェンの音楽には無駄な音が1音もない」と言っていたのは、納得して印象に残っている。もっとも、他の人の作品には無駄な音があるのか?あるとすればそれはどの音か?と問われれば、的確な返答をする自信はない。
 ロマン・ロランが「有名な」と書いているから有名な逸話なのだろうが、曲全体が完成してから数ヶ月後、楽譜の印刷作業が始まった後になって、ベートーヴェンは第3楽章の冒頭に二つの音を付け加えた。ロンドンで作業に当たっていた弟子・フェルディナンド・リースは、その旨の指示を受け取って「何を今更!」と仰天したらしいが、直後、その2音の持つ重要性に気付き、驚嘆したという。
 延々40分以上、音符の総数がいくつかは途方もない。その中に印刷の途中で2音を付け加えずにはいられない。なるほど、音符の一つ一つにそれだけの意味が込められていてこそ、「ベートーヴェンの音楽には無駄な音が1音もない」ということになるわけだ。このことは、演奏者の側からすれば、ベートーヴェンを演奏する時には1音もゆるがせに出来ない、ということであるだろう。同時に、聴く者についても同じことが言えるだろう。私はなんとなく聴いているだけである。楽譜を目の前にして聴いていてさえ、とてもそれだけの緊張感と集中力を持って、全ての音符を追いかけることは出来ていない。
 なんだか、この日の演奏者に文句は言えないようにも思われてくる。