ペテルギウスの爆発は見たい!!



 昨日の新聞各紙は、山形県のアマチュア天文家・板垣公一さんが、100個目の超新星を発見したことを報じた。豆菓子会社の社長をしながら、夜間、夜空をにらみ続けるのだという。記念すべき100個目の超新星を、山形市内の自宅から栃木県に設置した望遠鏡を遠隔操作しながら見つけたという話にも驚いたが、17.9等級という暗い超新星であることや、彼が初めて超新星を発見してからわずか15年で100に到達したという話にも大いに驚いた。

 当然のことながら、星というのは、少し暗くなるごとに加速度的に数が増える。1等星なら全天で20個ほどしかないが、18等級(1等星の約580万分の1の明るさ)は正に無数だろう。暗いために見にくい上、無数にある中から、昨日はなかったのに今日はある、という星を探すのは、私にとっては神業である。

 言うまでもなく、超新星とは星が一生を終える時の大爆発である。それに「新星」という矛盾した名前を付けたのは、今まで見えなかった星が見えるようになり、あたかも新しい星が生まれたかのようだからである。1年間にいったいいくつの超新星が発見されるのかは知らないが、一人のアマチュア天文家が年に10個近くも発見できるということは、正にひっきりなしに、宇宙のどこかで星が爆発し、その生涯を終えているということだろう。星の寿命が百億年にも及ぶことを思うと、宇宙というもののとてつもないスケールに、気が遠くなりそうだ。

 ところで、冬休み中に読んだ新聞記事の中で最も印象に残ったものに、オリオン座のペテルギウスに関する記事がある(12月28日『日本経済新聞』)。それによれば、ペテルギウスは現在、その生涯の最終段階にあり、最新の観測結果によれば、既に半径が7億キロ(太陽系だと、太陽から木星の手前)まで大膨張し、いびつで、表面には凸凹が生じている。大量のガスを噴出している兆候もあり、ごく近い将来、大爆発することが天文学者たちの間で噂されている。その瞬間は明日かも知れないし、100万年後かも知れない、という。

 「明日」は明らかに「今」の間違い。「100万年後」は、150億年を超える宇宙の歴史からすれば一瞬だろうが、星というのは質量の2〜3乗に反比例して寿命が短くなるので、太陽(推定寿命100億年)の20倍の質量を持つペテルギウスの寿命は、長くても2500万年である。だとすれば、爆発寸前が「100万年」は長すぎる。これも間違いだろう。余計なことを更に言えば、ペテルギウスは地球から640光年あまり離れているので、爆発は既に起こった可能性も高い。640年間、私たちがそれに気付けないだけである。

 ともかく、これだけ重くて大きな星が爆発すると、爆発から1時間後には太陽と月を除くどの星よりも明るくなり、3時間半後から1年間以上、昼間でも見える明るさを保った後、400日後くらいから昼間は見えなくなり、4年後には肉眼で見える明るさ以下となってオリオン座の右肩が欠ける、となるらしい。こういう予測ができるというのも驚異だが、なんともワクワクするような壮大な天体ショーではないか。恒星の中では至近と言ってよいが、640光年という距離があるおかげで、私たちは、身に危険を感じることなくそれを楽しむことができる。また、様々な最新鋭の観測機器のおかげで、ニュートリノの検出を始めとする、肉眼では見えないイベントもたくさん報告されるに違いなく、それも大いに楽しみだ。

 宇宙における「ごく近い将来」が、私が人生を終えるまでの一瞬にも満たない時間の範囲で訪れてくれるよう願わずにはいられない。おそらく、板垣さんという方は、暗い超新星についても、私がペテルギウスの話を聞いて感じるのと同じようなロマンと感動を感じながら見つめることができる、だからこそ、そんな根気の要る、地道な作業に取り組み続けることができているに違いない。


(余談)

野本陽代『ドキュメント 超新星爆発〜400年目の大事件』(岩波書店、1988年)という本、1987年に大マゼラン雲で発見された、16万光年離れた超新星爆発に関する観測のドラマを追ったものだが、とても面白い。とうの昔に絶版になったが、Amazonの古本で、極めて廉価でたくさん売りに出ている。なお、「400年目」というのは、肉眼で見える超新星の発見が400年ぶりだったことによっている。