南極と酒

 南極観測60周年を記念して南極OB会が編集した『南極大陸大紀行』(成山堂書店、2017年5月)という本を読んだ。その中で、第35次観測隊長・横山宏太郎氏による「内陸旅行の食料」というコラムに、「内陸の酒類」という章があった。「酒類も1日の仕事を終えてくつろぐ時には欠かせないものであり、」と始まり、どんな酒を持って行ったか、というような話が、500字近くを費やして書かれている。
 思えば、私がはるか40年以上前、南極という場所を初めて意識するようになったのは、第1次越冬隊長・西堀栄三郎の著書『石橋を叩けば渡れない』(日本生産性本部、1972年)によってであったが、そこにも既に「酒」の話が出てくる。
 西堀が南極に行く時、過酷な南極の生活条件の中で、隊員に酒ぐらいは自由に飲ませてやりたいとの思いから、大量の酒を準備しようとした。その量たるや、砕氷船「宗谷」が氷海に閉じ込められた時のことも考えて、130人、1人当たり毎日2合で1年分である。しかし、輸送に費やす労力が増えることへの懸念と、文部省(当時)の予算の関係から、普通の酒を大量に持っていくわけには行かない。そこで、普通の酒の中にアルコールを大量に入れて一種の濃縮酒を作り、それを南極に持って行った。
 ふと思い出して、我が家にある南極関係書籍にパラパラと目を通してみると、酒に関する記述が目に付く。しかも、おそらくそれらの酒は、南極観測隊派遣に関する公費で購入されているに違いない。詳しい法令については無知であるが、南極で職員が飲食する費用はよほど特殊な嗜好品でなければ、全て公費のはずだ。確か、船では飲食費を職員から取ってはいけないという法律があるはずだ。自分で調達できない場所でお金を徴収していいことにすれば、いくらでもぼったくることが可能になるからだと私は理解している。南極も同じである。基地の外に買い物が出来る場所は一切ない。また、仮に酒が私費だったとしても、昭和基地まで物資を運ぶのは大変な作業であって、それは当然すべて公費である。
 決して誤解のないようにして欲しいのだが、私はそのことを批判するのではない。むしろ、非常におおらかなものを感じ、安心さえするのである。と同時に、私たちの生活にとって「酒」とは何か?ということについて、あれこれと思いが巡り始める。
 この10年か15年、学校現場で「酒」は悪者である。私が教員になった頃は、酒を伴う卒業祝賀会を校内で開催したりもしていたのに、いつの間にか、校地内で酒を飲むなんてまかりならん、という雰囲気(?)になり、時々酒気帯び運転か飲酒運転かで事故を起こしたり捕まったりする教員のことが、マスコミによって大々的に報道されるようになって、その雰囲気は加速した。酒を飲んで車を運転しませんという誓約書のようなものを書かされたり、酒席の冒頭で、幹事から興醒めな注意が為されるようになり、折から自家用車による長距離通勤の増加もあって、酒席は極端なまでに減少した。そしてそれに伴い、なんだか酒を飲むことそのものが悪であるかのような雰囲気さえ漂い始めたのである。
 例えば、卓上に醤油があるとする。これを贅沢品だと考える人はあまりいない。しかし、1リットル300円の醤油なんて贅沢だ、公費の飲食には1キロ100円の塩があれば十分だ、という意見があっても不思議ではない。「必要」ということについてどこで線を引くか、という問題である。
 日本の日常にいれば、公費で「酒」は批判されても仕方がない。しかし、1年間、雪と氷に閉ざされ、白夜と極夜、人間関係も完全に固定、というある意味非常に単調な生活環境の中で、精神的なバランスを維持し、価値ある観測・研究活動を行うために、飲食の果たす役割は大きい。その中で、「酒」をむげに嗜好品とか贅沢品としていいかどうか?塩で済むのに醤油は贅沢か?300円の醤油は許されるとして、500円の醤油だったらどうか?という延長線上で考えていくと、これは案外難しい問題なのではあるまいか?
 ただ、人間が飲める量なんて限られているだろうし、観測隊員の仕事には国策としての使命云々というような大仰なことを言わずとも、彼らの研究者としてのキャリアがかかっているとなれば、彼らが仕事に支障が出るほど酒に溺れることは考えられない。もともと、色々な意味で優秀な人たちがメンバーとして選抜されているということもある。
 南極には国境がない。南極条約によって領土権が凍結されているからである。動植物採集や資源の採掘も出来ない。軍事活動も出来ない。紛争が絶えず、欲望にまみれた現在の地球において、ある意味でそこはパラダイスだ。えーい、この際「酒」も・・・。というわけではないにしても、今の日本のように萎縮傾向を強め、真面目に意味を考えることもなく、なんとなく「酒」が片隅に追いやられるようなことになって欲しくないなぁ。南極は、自然観測だけではなく、そんな問題提起が出来る場所でもあるようだ。