遠い南極(2)

 そんな私にとって、突然、南極が現実的な「夢」となったのが、2008年に募集が始まった教員派遣枠の設定だった。私は、最初期の段階でその企画に気づいた。しかし、当時は父が介護を必要とした上、下の子どもが生まれたばかりで、半年近くも家を留守にすることは不可能だった(3日間でも難しかっただろう)。自分自身の年齢についての危機感も欠いていた。だから、要項をしっかり確かめることもせずに、どうせ国語の教員じゃ駄目だろうなぁ、と思い、漠然と諦めていた。
 間もなく父は死に、子どもは着実に大きくなったが、一方、南極派遣の応募を妨げる要因は他にもあった。仕事である。11月から3月まで、学校を留守に出来る状況を作るのも意外に難しかった。管理職や職場の理解を得て、年度始めの段階で、担任も主任も外してもらっておけばいいようなものだが、残念ながら、2010年から勤務した水産高校は年齢層の非常に若い学校だった。そんな中で、数少ない年配教員には、それ相応の立場や役回りがあった。それを無視して、学校を空けられるようにするのは憚られた。私は決して真面目教員ではないと思うが、それでも、半年間の留守で同僚に迷惑をかけるのは気がとがめたのである。
 この間、2011年(第53次隊)には仙台の市立高校の教員がこの派遣枠で採用され、南極へ行った。話を聞こうと思えば聞く機会はあったのに、私は悔しいこともあって足を運んでいない。54次隊と58次越冬隊にはDr,大江が参加し、56次越冬隊にはやはり一高山の会のT君が、野外観測支援という立場で参加した。南極が少し身近になると共に、諦めを含みつつ、私も行きたいという願望が少しずつ強まってきた。
 昨年の夏休みに、教員免許の更新講習で函館に行った。北海道大学の実習船おしょろ丸に乗っての研修である(→その時の記事)。この時、私と同じ研修生の中に第55次夏隊の教員派遣で南極に行ったM君がいた。私は初めて、教員派遣の経験者から直接話を聞くことができた。仙台に戻ってまもなく、砕氷艦しらせが仙台港に入り、一般向けの見学会が行われた。おそらく、仙台港にはこれまでにもたびたび来ていたはずだが、情報が入らなかったり、都合が合わなかったりして、私は行けなかった。昨年、私は初めてしらせを見に行った(→その時の記事)。
 その時、私はにわかに、今年こそ教員派遣枠に応募すべきだと思った。チャンスがあるとすれば、今年しかない、と思った。4月に昭和基地から年賀状をもらった所(→その時の記事)から始まり、前段に書いたような出来事が立て続けに起こった。加えて、春に異動した塩釜高校は、宮城県で一番大きな公立高校であり、それは教員数の多さを意味する。しかも、平均年齢が非常に高い。異動初年ということで、私には責任あるポストもない。私が学校を留守にすることの影響がこれほど小さくて、しかも、その見聞を広める対象となる生徒がこれほどたくさんいる学校は他にない。校長は、教員が学ぶことを非常に大切にする、珍しいほど見識が高く柔軟な人物だ。あらゆる追い風が吹いていると思った。
 秋にそんなことを考えた時に、原点を確かめるという意味で、久しぶりに『石橋を叩けば渡れない』を手に取った。西堀栄三郎氏は11歳の時に、日本人として初めて南極に行った元軍人・白瀬矗(しらせ のぶ)の講演を聴いて南極に関心を持ち、それから43年後に越冬隊長として南極行きが実現したことを改めて知り、とても驚いた。私は12歳か13歳の時に、その西堀氏の著書で南極に関心を持ち、昨年か今年が43年後に当たる。つまり、本を読んだのが12歳の時だとすれば第60次隊に応募の時点で、13歳の時だとすれば参加の時点で43年後だ。これはあまりにも出来すぎた偶然である。
 『石橋を叩けば渡れない』の第1章は、「若いころの夢はいつか実現する」だ。私と同様、西堀氏だって、43年の間ずっと南極に行くことを現実的目標として考えていたわけではなく、行けるわけがないというあきらめの中で、情報にだけは意識的に接するという時間を過ごしている。それでいて、43年後に南極が突然目の前に現れてきた。この西堀氏との偶然の一致もまた、今年こそ私が南極派遣に応募すべきタイミングだという神の暗示、運命のいたずらのように思えた。西堀氏は、第1章を「とにかく、強い願いを持ちつづけていれば、降ってわいたようにチャンスがやってくるものです。そのとき、取り越し苦労などしないで、躊躇なく勇敢に実行を決心することです。」と結んでいる。私は、背中を押されていると感じた。
 私は国立極地研究所のホームページで、昨年の募集要項を探すと、応募へ向けての研究に取りかかった。(続く)