『こころ』の「逆襲」

 せっかくなので、今回『こころ』を読んでいて発見したこと、今までになく気になったことなどを、少し書き留めておく。なにも「オリジナルな発見」と誇るつもりはない。むしろ、多くの読者の方から見れば、「ふん、何を今更」というようなことかも知れない。私自身も、以前、同様のことは既に気付き、感じていたが、それを忘れているだけかも知れない。あくまでも私自身のメモもしくは感想なので、話の平凡についてはご容赦いただきたい。
 『こころ』の(下)「先生と遺書」第37回に、次のような一節がある(表記改)。

「何故さっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手抜かりのように見えてきました。せめてKの後に続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。」

 Kが「私」に、お嬢さんが好きだということを告白した場面に続く部分である。「私」は自室に戻り、考え込んでしまう。その時、「私」が何を考えていたか。それを述べた部分の一部だ。さて、「逆襲」とは何をするだろう?
 ある意味で、これは非常に明瞭なことと思える。「自分の思うとおり」とは、自分もお嬢さんのことが好きだ、ということである。そこに「せめて〜たら、まだ〜ろうに」という表現が重ねてあることから、「逆襲」が、自分もお嬢さんのことが好きだとKに告げることではない、仮にそれが「逆襲」だとしても、最低限であって十分ではない、ということだけははっきり読み取れる。これは絶対に間違いのないことだ。私は生徒と多少の問答をしながら、まずここまでを説明した。この場面で出来る説明はそこまでだ。
 ところが、その後、私はある生徒から質問を受けた。生徒が持っている教科書準拠の問題集で「逆襲」の意味が問われていて、「解答・解説」によれば、答えは「「私」がKに対して、自分もお嬢さんのことが好きであると告げること」となっている、平居先生の解説と違うのだが、どちらが正しいか?という質問であった。
 なかなかまともな生徒だ。平凡な生徒なら、平凡な高校の一教員に過ぎない平居より、活字になっている「解答・解説」の方が絶対正しいに決まっている、平居はウソを教えた、と考えるだろう。そして、質問にさえ来ないに違いない。
 私は、その生徒に聞き返した。「あなたはどちらの説明に説得力を感じますか?」生徒は「平居先生です」と答えた。私は、「だったらそれでいいではないですか」と言った。すると、この段階では、答えが書けない。困った顔をする生徒に、「そのうち分かるかもね・・・」と、はぐらかす。
 さて、引き続き読んでいくと、第41回には、次のような場面がある。

「私はまず「精神的に向上心のない者はバカだ」と言い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を持っていたということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。」

 Kは道のために全てを犠牲にして精進することを理想の生き方と考え、恋を否定していた。恋を肯定的に捉える「私」を、価値あるものに気がつけない愚か者と考え、かつて二人で房総半島を旅行した際、半ば侮蔑の情を込めて「精神的に向上心のない者はバカだ」と言ったのである。一方、Kからお嬢さんに対する恋心を聞かされた「私」は、その言葉をKに投げ返すことで、恋をあきらめさせようとした。「私」はそれを「復讐以上に残酷な意味を持っていた」と書く。恋をあきらめさせることが「復讐」よりも残酷であるとすれば、「復讐」は漠然とした生き方一般についての否定である、ということになるだろう。
 「私」がKに、自分もお嬢さんのことが好きだ、と告げることは、「逆襲」よりもはるかに軽い行為である。恋というものが突如大問題として目の前に表れた場面において、生き方一般などという発想は生まれようがないから、「逆襲」は、恋をあきらめさせるためのアクションだと考えてよいだろう。単に「私」がお嬢さんへの恋をKに告げることは、相手の生き方の否定などよりは軽い、自分自身についての事実の通知に過ぎない。だとすれば、Kに対する「私」の言動の関係は、およそ次のようになるのではないか?
「私」による恋の告白<復讐<逆襲=Kの恋をあきらめさせるための言動
 少なくとも、第37回の「逆襲」が、Kに「私」のお嬢さんに対する恋を告白すること、というのは荒唐無稽だ。第41回まで読み進めて、Kに恋をあきらめさせることである、と納得する。ところが・・・実は、問題はまだ残るのである。(続く)