『こころ』の「逆襲」(続)

 昨日は、『こころ』(下)「先生と遺書」第37回で、「私」すなわち「先生」が、Kからお嬢さんに対する恋の告白を聞かされた時、その場で「逆襲」すべきだった、と後悔していたことを問題にした。そして、第41回に出てくる、「復讐以上に残酷な意味」すなわち、Kに恋をあきらめさせることこそが「逆襲」であったに違いない、と述べた。その上で、しかしこの解釈にも実は問題がある、と結んだ。
 第37回で、私が「逆襲」すればよかったと考えているのは、Kから恋の告白を聞かされた日の午後である。驚いたことに、今使っている教科書(第一学習社『現代文B』)では、何の断りもなく、この後連載2回分(第38回と第39回)が省略されている。そこには、例えば次のような記述がある(岩波『漱石全集』表記改)。

「ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問に対する彼の答え次第で決めなければならないと、私は思ったのです。すると彼は他の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察どおりだったので、内心嬉しがりました。(中略)私はまた彼に向かって、彼の恋をどう取り扱うつもりなのかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も隠す必要はないとはっきり断言しました。しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。」(第39回)

 再び、教科書引用箇所に戻る。

「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ開け放しと評するのが適当なくらいに不用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりとそれを眺めることが出来たも同じでした。Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことが出来るだろうという点にばかり眼を付けました。そうしてすぐ彼の虚につけ込んだのです。」(第41回)

 つまり、「私」は、注意深くKを観察しながら、Kの状態把握に努め、最善の、つまりはKにお嬢さんへの恋をあきらめさせるための最も効果的な方法が何か、を考えているわけだ。この間おそらく数日(最低でも2日)。そして、その結果として、上の引用の直後に「精神的に向上心のない者はバカだ」が来るのである。その言葉を使うことを「私」がいつ思い付いたか?・・・それを考える手がかりは一切ない。
 だとすれば、最初に「私」が「逆襲」すればよかった、と後悔した時に、「逆襲」が昨日論じたとおり、Kに恋をあきらめさせることだったとして、その具体的な方法まで思い及んでいた可能性は非常に低いと言わなければならない。だから、「私」はKの恋に驚きつつ、何も出来ないのは当然だったのである。よって、教科書準拠問題集(昨日参照)の答えも、「Kに恋をあきらめさせるための何かしらの言動」としか書けない。
 大人も子どもも、はっきりしない答えは大嫌いだ。数学よりも国語が嫌われる理由でもある。しかし、分からないものは分からない。ある程度までしか分からないものは、ある程度までしか分からない。世の中にはそんな問題がたくさんある。それを認め確かめることも勉強のうち・・・ダメ教師である私は、そんな風にして開き直る。