中村桂子さんの公開授業

 『こころ』について、もう少し書こうと思っていたのだが、一時中断。
 土曜日は仙台に中村桂子さんの公開授業というのを見に行っていた。中村さんというのは、高名な生命誌研究者である。もっとも、「生命誌」という言葉自体が「高名」でないので、「高名な生命誌研究者」という説明の仕方が分かりやすいとはあまり言えない。
 私流に簡単に言えば、中村さんは、DNAというミクロのレベルを研究することによって、そこに記録された地球上の生物38億年の歴史を明らかにする、というスタンスで研究を続けて来られた方である。私が先日買った中村さんの最新刊『いのち愛づる生命誌』(2017年、藤原書店)で、中村さんは、「誌」とは記録するという意味で、「身のまわりの生きものたちをよく調べ、それを誌(しる)していくことで、地球上の生きものたちすべてを登場人物とする歴史物語を描きたいと思っていた」と書いている。かくして、現在、JT生命誌研究館館長。御年なんと81歳。
 そう言えば、宇宙物理学は、素粒子というとてつもなく小さなものの研究を通して、直径150億光年というとてつもなく大きな宇宙の姿と歴史とを解明しようとしている。特定の人間を描いた文学や歴史書は、小さく特殊な個人を追究することを通して、「人間」の持つ普遍的性質を明らかにしようとしている。これらの共通性を私は面白いと思う。
 物理学者・村山斉は、その著書『宇宙は何でできているのか』(2010年、幻冬舎新書)の中で、「世界はウロボロスの蛇だ」ということを言っている。ウロボロスの蛇とは、ギリシャ神話に登場する、自分の尾を飲み込んでいる蛇のことである。村山は「宇宙という頭が、素粒子という尾を飲み込んでいる。広大な宇宙の果てを見ようと思って追いかけていくとそこには素粒子があり、いちばん小さなものを見つけようと追いかけていくと、そこには宇宙が口を開けて待っているというわけです」と解説する。宇宙でも、命でも、人間でも、この構造はおそらく同じ。そしてこの三つが同じであるとなれば、ウロボロスの蛇は、あらゆる事象に当てはめの利く普遍的法則だと帰納できるということになる。
 ともかく、以前から中村桂子という方のお仕事を多少は知っていたつもりの私は、これは面白い大人物が来るものだ。 高校生を公募して公開授業をするとなれば、行かなければ・・・と思っていたのである。
 主催は「みやぎ教育文化研究センター(教文センター)」。学校あてに、教室掲示分のチラシも届いていたので、私は授業で生徒に紹介もし、受講を勧めたが、反応は今ひとつ。それでも、5人の諸君が参加してくれた。当日、県内から集まった高校生は全部で27人なので、うち5人というのはなかなかの健闘だろう。
 さて、前半が講義、後半が中村さんと高校生の対話という2部構成は、前半こそが文句なしに面白かった。特に、熱帯林で生態系を支えるキー・プラント(鍵になる木)と呼ばれるイチジクと、その実に寄生するイチジクコバチとの関係についてのお話は感動的だった。
 とりあえず10種類のイチジクを問題とする。そこに寄生するコバチも全部種類が違っていて10種類だ。それらのDNAを分析し、種類の分化がどのように進んだかを調べて樹形図を書くと、イチジクの樹形図とコバチの樹形図の形は完全に一致する。つまり、イチジクの分化に応じ、まったく足並みを揃えてコバチも分化した。それを「共進化」と言うらしいが、この分化過程の一致は感動的であった。(この話は、私がかつて読んだ中村さんの3冊の著書には登場しない。)
 タコの話も面白かったが、時間がないと言って、ひどく端折ってお話しされたので、もっとじっくり聞きたいという物足りなさが残った。蜘蛛の話はすべて割愛となってしまった。これも残念!
 一方、その後の高校生との対話が面白ければ、それはそれで諦めがつく。ところが、なかなかそうはいかなかった。相当数の大人たちが見守る中、高校生が後から後から質問したのは実に立派だったのだが、どうも問答や議論がちぐはぐでかみ合わない。理由ははっきりしているのだが、大先生に気の毒なので書かない。簡単に言えば、前半の年齢を感じさせない若々しく情熱的な研究者が、後半はただの81歳のおばあちゃんになってしまった、ということである。それでも、参加した高校生はそんな不満を感じた風もなく、それなりに勉強になったとニコニコ顔であったのが救いだった。
 ところで、教文センターがこのような公開授業を始めて7年目。講師は毎年、日本を代表する学者であるにもかかわらず、高校生を集めるのが非常に難しくなっているそうである。さもありなん。
 いくら一流の研究者でも、高校生にとっては大抵知らない人である。教室にチラシを掲示しただけで、知らない場所に知らない人の授業を受けにわざわざ出かけて行ったりするはずがない。身近な教員が、その講師のすごさ面白さを語って誘うという行為が不可欠だ。だから、受講する高校生が集まらないというのは、現場にそのような教員がいないということなのである。中村さんの公開授業に生徒が集まらないというのは、私が以前から嘆いている現場教員の不勉強(→例えばこちら)、目の前の利益と直結することにばかり目を奪われ、わざわざ余計な仕事で自分を忙しくしては自己満足に浸っているという教員の現状の反映である。
 今回の公開授業のタイトルは「知の発見 なぜ?を感じる力−生きているってどういうこと?−」であった。なぜ?を感じる力、知の発見の感動を最も必要としているのは、おそらく生徒以前に教員の側だ。