遠い南極(6)

 さて、最大の問題は「『南極授業』計画案2回分」というものである。私は、提出書類としてこれがあることを初めて知った時、目を疑った。なぜなら、まだ南極に行っていない段階で、授業案なんて作れるわけがない、いや、むしろ、そんなものを作って本当にそのとおり授業をするとすれば、わざわざ新鮮な発見のないつまらない授業をすることになるだろう、いくら事前に周到に予習をし想像を膨らませて行っても、必ず新しい発見と驚きがあるからこそ、現地に実際に行くことには意味があるはずだ、と思うからだ。実際、このブログの「旅行」というカテゴリーに分類してある記事を見ても、ただの記録というだけではなく、多くは何かしらの新鮮な発見によって書こうという衝動が起こった結果のものである。事前に記事のプランを考えてみろ、と言われても、絶対に無理。実際に南極に行けば、2回どころか、現地で見つけたネタで授業を行うことくらい、30回でも40回でも容易であると思える。しかし、どうしても、「事前」は無理なのである。
 もうひとつ私が悩んだのは、教員が南極に行くのは、報道機関の人が南極に行くのとどう違うのか?という問題である。南極観測隊には「報道関係者」という枠も2名分ある。今回の連載(2)で紹介したとおり、教員派遣の募集要項には「国内の小・中・高等学校等の児童生徒や一般国民に向けての、南極に関する理解向上につながる様々な情報発信をしていただくことを期待しています」と趣旨説明が為されている。だが、「一般国民に向けて」「南極に関する様々な情報発信」をするなら、報道関係者の方が圧倒的にパワフルであろう。私は、教員を南極に連れて行く価値があるとすれば、そのような体験をした人間が学校にいること自体に価値がある、と考えている。だから、自分としては教員と報道関係者の違いなんて意識する必要はない。しかし、いざ「南極授業」というテレビ番組もどきのプランを考えようとすると、教員とマスコミとは何が違うの?という問題に当面して、悩んでしまうのだ。
 ところが、募集要項を見ると「7.選考基準」として、「提出された『南極授業』計画案の実現性、実効性、着眼点等から総合的に判断します。」とだけ書かれている。つまり、少なくとも表向き、選考はほとんど全て、この「『南極授業』計画案」の善し悪しによることになっている。となると、いくらこちらが文句を言っても始まらない。選考のために被選考者が何を提出するかは選考する側が一方的に指定するものだというのは、あらゆる選考試験の常識である。
 私は、授業の内容そのものではなく、授業案の行間を読む形で適性を見極めようとしているのではないか?などと疑ったのだが、ともかくも、授業案を書かなければならない。そこで私は、10月くらいからお正月までかけて、今回購入したものも含めて30冊あまりある我が家の南極関係書籍を丁寧に読み直すことから始めた。同時に、昨夏知り合った教員派遣経験者M君に頼んで、彼が合格した時の授業案=模範解答を見せてもらった。M君の指導案を見ても、私にはまったく特別なものに見えなかった。「実現性」なんて、現地を知らない人間には判断できるわけがない。そこで、自分が現時点で伝えたいと思うことを正直にまとめてみるしかないと腹をくくった。
 正月明けの数日で、とにもかくにも「授業案」というものを2回分作った。第1回は、導入として、私と南極との関係(今回の連載第1回に書いたようなこと)を述べた上で、南極がどのような場所かを理解してもらうために、世界地図の中で南極がどのように扱われているかに触れ、昭和基地の生活環境(特にエネルギー・食糧)をレポートして、日本国内での生活の過剰を考えさせる、というもの、第2回は、自然観測地としての南極の特長を確認した上で、環境変動、宇宙研究、生物研究という3つのテーマで、それぞれに関わる研究者にインタビューする、というもの、である。1コマ45分程度という制約からすると、詰め込み気味であったことは認めるが、私の問題意識と関係する範囲で、まあこの辺かな?というあたりを狙って書いた。
 「上手く出来た」などとは思わなかった。そもそも「上手く」がどのような状態なのか見当がつかない。多くの情報を仕入れれば仕入れるほど、たった45分×2という限られた枠の中では、妙に受け売りの解説臭いことをする方向に流されてしまう。何も予習なんかせずに、出来るだけ無邪気な思いつきっぽい授業にした方が評価されるのではないか?とも思ったが、なまじ知識があり、しかも現地へ行く前となると、かえってそういう授業を計画するのは難しい。選考者の意図や心理が分からないのはつくづく悩ましいものである。授業案なる課題が選考者の心の琴線に触れるかどうかは「運」だな、と思った。やっぱり南極は遠い。(続く)