南極と教育

 素晴らしい天気の大晦日であった。特に午前中は、微風快晴。雲一つない青空で、我が家から見ると海がとてもきれい。
 昨晩録画してあった舘野泉(86歳、左手だけのピアニスト)の特集番組を見た後、今年最後の牧山Runに行った。天気がいいので、ウィンドブレーカーも手袋もなしで行ったら、手はけっこう冷たかった。約1時間の山中で、会ったのはわずかに1人。気持ちはいいが、寂しい冬の里山だった。
 午後は、2時間ほど掃除をした後、机に向かった。
 一昨日、思ってもみなかったレターパックが届いた。差出人は、第54次と第58次で南極越冬隊に参加した医師Hさんである。開けてみれば、日本極地振興会発行の雑誌『極地』第57巻第1号のコピーが約40ページ分と、その他若干の資料、そして、南極OB会発行のカレンダーが入っていた。
 同封のお手紙に「今頃になってしまい申し訳ありません」とある通り、実は『極地』第57巻というのは昨年=2021年の発行である。とは言え、私は記事どころか、こんな雑誌の存在そのものを知らなかったので、「なにを今更」というような気分は一切なく、新鮮な思いで手に取った。Hさんがわざわざ送ってくれたのは、この号の特集が「南極観測と教育現場のかかわり」だったからである。
 有名な話(?)、私は南極への教員派遣に3回応募して3回落ちた経験を持つ(→最初に応募した時の記事。2回目と3回目はそこからたどれるはず)。Hさんもそのことはご存じだ。その上で、今でも関心を持っているなら参考までに、ということで送ってくれたらしい。
 『極地』の記事には、巻頭言に続き、教員派遣で南極に行った3人の文章と、南極研究科学委員会の分科会である人文社会科学常設委員会のまとめ記事が含まれる。どの記事も興味深く読んだ。
 もちろん、読みながら落選の悲しみ、或いは悔しさは改めて感じた。特に、Tさんという方の、南極に興味があったわけではなかったが、あまりにも多忙な日々の生活から逃げ出したくて応募したら採用された、という記事は、「やっぱり」という衝撃を受けた。上でリンクを張った記事を読んでいただければ書いてあるのだが、南極に対する強い思い入れを持ち、今までに相当な知識を蓄積してきた私のような人間は落ち、思いつきで応募したような人が採用されるのではないか、と想像していたところ、その通りの現象が起こっていることが確認できたからである。
 また、応募の時、私は南極から衛星回線を通して行う授業の指導案を出せ、という課題に頭を抱えていた。南極で新鮮な発見があるから、それをネタに授業をするのであって、事前に指導案を出せというのは理不尽に思えたからである。今回の文章を読んでみると、3人とも、やはり現地で情報収集を行い、授業プランを考えている。だとすれば、採用選考の時に提出した指導案っていったい何なの?と思う。それを重要な選考材料にするとされているだけに、どうも釈然とせず、不愉快だ。
 ただ、国立極地研究所が、貴重な貴重な派遣枠から2名を割いて教員を南極に連れて行くことにしたことはやはり英断だった、との思いも抱いた。どの文章にも、何を南極から持ち帰り、帰国後にどのように活かしているかみたいな話が書き連ねてあったが、あんまり生真面目に、理屈っぽく「活用」を考える必要はないと思う。南極という特別な場所に行って、多くの物を見てきた人が学校にいる、そのこと自体に十分価値があるのではないか。
 大昔、学生時代や、教員になる直前に、私は中近東、ヨーロッパ、中南米など多くの国々をうろつき回った。教員の中でも、私ほどあちらこちらを訪ねたことのある人間には会ったことがない。教員になった当初は、そんな時に見聞きしたことを話す機会も多かった。生徒は面白そうに聞いてくれた。ところが、おそらく今同様のことをしても、生徒は決して喜んで聞かないだろうな、という予感がある。教室の雰囲気が、明らかに、それを「余計なこと」と感じるものになっているのだ。
 情報の氾濫によって、好奇心がすっかり磨滅しているのかも知れない。外国に行くことがあまりにも普通のことになってしまったのかも知れない。目先の利益主義により、考査に出ないことは勉強のうちではなく、余計なことだという刷り込みが行われてしまっているようにも思う。バーチャルの世界に、あまりにも強い刺激があるために、リアルでは何を見ても退屈だ、ということもあり得る。
 では、対象が南極だったら、生徒の好奇心は活性化するのだろうか?いや、あくまでも私の想像だが、「南極」に行ったと聞いても、「え!?南極!!」と目を輝かせる生徒は非常に少ないと思う(現任校の生徒の特性であり、学校が変われば事情も変わるかも)。アメリカでも中国でもドイツでも南極でも、まったく同じように「どうでもいい」のではないだろうか?そんな中で、生徒が「南極」に心ときめかせ、新しい視点を獲得し、自然や科学について能動的に学び始めるように仕向けるのは難しい。
 送られてきた記事に書かれた実践例は、その点において立派な成功例である。私は今でも南極に行きたいという強い気持ちを持っているし、行ったら山のように発見があるだろうとは思っている。しかし、よほど優れた話術を持つか、うまく舞台設定をしなければ、それが直ちに生徒を動かすことにはならない。どうするかなぁ?・・・自然と考え始めては、今更考えても仕方のないことだと中断し、ふと気が付くと、また「どうするかなぁ?」と考え始めている。そんなことを繰り返していた。これもまた未練の一つの姿だろうか・・・?