「進んでいいか退いていいか」

 前回(→こちら)引用した第40回、「迷っているから自分で自分がわからなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるよりほかにしかたがない」というKの言葉の後は次のように続く。

「私はすかさず迷うという意味を聞き出しました、彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰まりました。彼はただ苦しいと言っただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇ききった顔の上に慈雨のごとく注いでやったかわかりません。」

 2学年にいる国語科担当教員は3人である。学校内の規定によって、定期考査は授業担当者が誰かに関係なく、共通問題でなければならないことになっている。原案を分担して作り、簡単な調整をして考査問題として確定させる。
 ある教員が、「進んでいいか退いていいか」に傍線を付し、「進む」「退く」とは何をすることか?という問いを立てた。引用文はその直後、すなわち「説明しました」で途切れている。原案作成者の作った「解答例」を見てみると、「進む」は「お嬢さんに恋の告白をすること」、「退く」は「お嬢さんとの恋を諦めること」と書いてある。「普通に考えれば」そうなるのだ、ということらしい。教科書会社(第一学習社)が出している教師用指導書でも、「進んでいいか退いていいか」は「「お嬢さん」の恋に向かって進むか退くかということ」と解説されている。某先生の強力な援軍だ。
 しかし、私は異を唱えた。「進む」「退く」の意味は読み取れない。「私」にとって、Kがお嬢さんへの恋を諦めることだけが関心事である以上、引用範囲外まで読んでいけば、「退く」が「私」にとって「恋を諦める」の意味であるとは、無理をすれば推測可能な範囲かと思うが、それとて本当に断定できるかと言えば、「断定できる」とは言いにくい。しかも、「私」とKで言葉の意味が同じだという保証はない。Kにとって恋が道に反するものである以上、「進む」が従来どおり道に向かって進む=恋を諦めるという意味であっても、何らおかしくはないのである。例えば、次のように補ってみよう。

A「彼は(今までどおり道に向かって)進んでいいか退いて(お嬢さんに向かって)いいか、それに迷うのだと説明しました。」

B「彼は(お嬢さんに向かって)進んでいいか(お嬢さんから)退いていいか、それに迷うのだと説明しました。」

後者は次のように言い換えるとまた印象が変わる。

B’「彼は(お嬢さんに向かって)進んでいいか退いて(今までどおり道に向かって)いいか、それに迷うのだと説明しました。」

 AとBとを比べただけでも、どちらで解釈すべきなのか分かりにくいことがよく分かると思うが、更に、B’となると、Kにとって大切な「道」に向かうことが「退く」というネガティブな表現と結びついてしまうために、違和感が少し大きくなる。AとB’とを比べてみると、Aの方が解釈として自然なのではないか、とさえ思われてこないだろうか?
 教科書に採録されているのは、「こころ」(下)の「先生と遺書」という章の一部だ。Kの言動はあれこれ書かれているものの、その意味は全て先生こと「私」の解釈である。自殺の理由から始めて、Kの本心はまったくうかがい知ることができない。
 例えば、第42回でKが「覚悟」という言葉を口にした時、「私」はそれを「恋を諦める覚悟」と解釈して安心しているが、第44回では「Kがお嬢さんに向かっていく覚悟」と解釈を変えて焦り始めている。繰り広げられているのは徹頭徹尾、「私」のKに対する独り相撲なのである。いったいKの本心はどこにあるのか?分かりそうで分からない。最後まで分からない。その得体の知れなさが「こころ」を嫌う人が嫌う理由であると思うが、一方で、この作品の妙味でもあるわけだ。
 授業で扱う以上、何もかも分からないでは済まないのだけれど、分からないことまで分かるとはできない。私は「Kの考えていることなんてほとんど何も分からない」という前提に立ち、「私」のことについても、Kの言動の意味についても、全て「私」がどう考えるかを読むのだ、というスタンスで授業をしていた。しかし、前述の考査問題について言えば、多少の意見交換(=「議論」とは書けない)の末に私が妥協して、問題はそのまま原案を使用することになった。私のような変人には、「普通に考える」ことがひどく難しい。


後からの注)今日12月25日、教材室という所で、かつて使われていたらしい三省堂の教師用指導書をたまたま見つけたので、上で問題にした箇所をどのように解説しているか見てみた。「進む」「退く」とは何を指しているかという問いを立て、「「私」にとって「恋に進む/恋を諦める」ことだと受け止められている」と慎重な書き方をした上で、更に「「進む/退く」を「恋に突き進む/恋を諦める」という意味に読むだけでは、「こころ」という作品の核心である「意思疎通の断絶」は曖昧にしか見えてこない。逆に言えば、ここを手がかりとして、登場人物たちの意思疎通がどれほど巧妙にすれ違いを演じさせられているかをたどることが、それぞれの自意識に自閉する近代人の心のありようを描いた小説として(中略)「こころ」を読むことを可能にする」と書く。私が上の記事で指摘したことと大きく重なり合う。偉い!!