「驚き」の構造

 梅雨に入ったと思ったら、最高の天気が続いている。昨日も今日も、気温20℃前後、乾燥した爽やかな風が吹き抜け、空は真っ青。ほとんど雲ひとつ無い。
 勤務先の高校は、今日から定期考査。今日は私の受け持ち科目の考査がなかったおかげで、束の間ののんびりした午後となった。1時間ばかり、特別支援教育研修会なる校内研修会が開かれたし、明日以降のドタバタに備えて平常点の集計作業もしなければならなかったのだが、あまりにも天気がよかったので、少し走りに出た。多聞山(往復15㎞強)まで行くのは荷が重かったので、多賀城跡に向かう。学校から東北学院大学工学部を経由して政庁跡まで行き、そこから真っ直ぐに引き返してくるという小1時間のコースだ(約9㎞)。政庁跡に近いアヤメ園では、アヤメの花が見頃を迎えていて美しかった。ただ、天気がよすぎて、どこにいても少しまぶしい。

 話は変わる。
 先月、「しかし」という逆接が、文中でどのように機能しているかということについて一文を書いた(→こちら)。自分にとって当たり前でも、他の国語科教員にとってはさほど当たり前のことではないらしい、という気付きに基づく。それとほぼ同じ思いから、今日は「びっくり」について少々書いておこう。
 例えば、例はいくらでもあるのだが、有名なところで夏目漱石『こころ』を見てみる。「私(=先生)」が、Kから恋の自白を聞かされた場面である。

 「彼の口元をちょっと眺めた時、私はまた何か出て来るなと勘付いたのですが、それが果たして何の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されてしまったようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。」

 これは最大級の驚きの表現であるが、「驚き」というものの性質を詳しく解説しているという意味では親切な記述である。というのも、「予覚(予感)がまるでなかった」ということと「驚いた」が深く関係することを、作者自身が明瞭に示しているからだ。
 驚きの背後には何かしらの予想(前提)というものが必ずある。その予想が裏切られた時の衝撃を、私たちは「驚く」と言うのである。「驚いた」という記述を見て、「ああ、驚いたのか」と分かったような気になってしまってはいけない。背後にどのような予想があって、それと実際に起こった現象がどのようにずれているのか、と考える必要がある。そのズレが大きければ大きいほど、「驚き」もまた大きい。
 例えば上に引いた『こころ』の場合、「私」にまるでなかった「予覚」とは、Kがお嬢さんへの恋を打ち明けることである。しかし、これでは不十分だろう。「私」はそもそもKが恋をするということ自体をあり得ないと考えていた。「道」を大切にするKは、恋も含めた「全て」を犠牲にして道のために精進することを人生方針にしていたからである。ここまで理解していて始めて、「驚き」は質感を持って読者に迫ってくる。
 こんなことを言えば、「嬉しい」だって「悲しい」だって、「腹が立つ」だって似たようなものではないか、という人もいるだろう。確かに、思いがけないプレゼントをもらったから「嬉しい」、思いがけず親友が死んだから「悲しい」、信じていた友人に裏切られたから「腹が立つ」のだ。嬉しさも悲しさも腹立たしさも、「予想外」の上に成り立っていることが多い。だが、その場合、それらは単なる「嬉しい」「悲しい」「腹が立つ」ではなく、「驚き」を内に含み持っているだけの話である。
 「嬉しい」「悲しい」「腹が立つ」は、予想の有無に関係なく、具体的な感情を表している。どんなことが「嬉しい」のか、「悲しい」のか、「腹が立つ」のか、直接的に説明できる。それに対して「驚く」は無色透明な衝動である。だからこそ、「驚く」と「嬉しい」「悲しい」「腹が立つ」は重複できるのだし、「驚き」を実感的に理解するには、「驚く」を成り立たせた「予想」というものを意識する必要があるのである。「驚き」の背後にどのような「予想」があったのか、という問いが、仮に「主人公はこの時どうして驚いているのか?」という問いと基本的に同じ答えになるとしても、前者の方が「驚き」という現象の性質に対してより一層本質的であり、その結果として、理解しやすい。今ここで両者が違うということに納得できなかったとしても、実際に文章読解に即してやってみると鮮やかに分かるはずである。
 これが私の言う「“驚き”の構造」というものだ。