『こころ』の「覚悟」

 3年生の授業で、国語という教科における高校生活のハイライト、夏目漱石の『こころ』を読んでいる。2時間かけて通読しても、生徒はほとんど何も憶えていないし、ポイントを絞らなければ考えるということもない。少しずつ読んでも、自ら先を読み進めようなどという生徒もいないので、連載小説の原点に立ち返るなどという立派な意図ではなく、少しずつ読み進めることにした。
 この作品については、今までにも何度か書いている。次の通りだ。
2017年12月1日 新聞連載小説『こころ』の授業
2017年12月2~3日 『こころ』の逆襲
2017年12月21日 公平な批評を求める切なさ
2017年12月24日 「進んでいいか退いていいか」
2018年6月14日  「驚き」の構造
2019年3月13日  恋は罪悪ですよ
 何度読んでも新しい発見があり、新鮮な気分で読める。正に「古典」の性質をよく表している名作だ。さて、私は今回いったい何に気付いたのか?


(申し訳ないが、「こころ」の内容を知らない人にも分かるように書こうと思うと、あらすじや引用が長くなりすぎるので、基本的に読者がストーリーを知っているという前提で書く。知らない場合、『こころ』(下)「先生と遺書」の連載第43回と44回が問題となるので、そちらを参照していただきたい。以下は最少限のあらすじである。)
「「私」は「覚悟ならないこともない」というKの言葉を聞いて、Kがお嬢さんを諦める気になったと喜ぶ。ところが、その翌日、Kが、自分が一度言ったことは守る人間であることに気付いた瞬間、果たして、Kの「覚悟」が本当にお嬢さんを諦めることであるのかどうかが気になってきた。そして、Kが決断力のある人間であることも考えると、「覚悟」とは「お嬢さんに対して進んでゆく」という意味に違いないと確信するに至った。」

 
 さて、これは奇っ怪だ。元々Kは、「道のために全てを犠牲にして精進する」ことを第一信条として生きてきた。「全て」には恋を含む。Kが「自分が一度言ったことは守る人間」であることを考えると、彼は自分の第一信条を捨てることができない。したがって、「覚悟」は「恋を諦める覚悟」、もっとはっきり言うなら、「道に向かって生きるために恋を諦める覚悟」と理解する方が自然である。
 だから私は、「私」がKの「覚悟」を「道を諦めて恋に生きる覚悟」とする展開に強い違和感を感じる。しかし、「私」自身が、「もういっぺん彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません」と言うとおり、恋に目がくらんだその時の私は、冷静さをまったく失っていたのである。
 そんな時に、思考や感情は論理的には進まない、意外な動きをするものだ、それが人間の心というものなのだ・・・、漱石はむしろそんなことを表現したかったのではないか?漱石が不注意によって非論理的な筋書きを作ってしまったのではなく、意図して作った不自然なのではないか?その点にこそ作品の面白さがあるのではないか?
 Kは決断力のある人間だ。その決断力は「恋をあきらめる」「恋に生きる」、どちらへの決断とも理解できる曖昧なものだ。そんな要素を間に書き加えたことにも、漱石の工夫が感じられて心憎い。
 今回、新たに思ったのはそんなことである。